礼拝説教の要旨

 

2018年8月5日

:「平和と命の主」聖書:マタイ福音書59

 

 平和や命の尊さそして戦争の悲惨さをより深く、より強く思わさせる8月に入り、主イエスの「平和を実現するものは幸いである」という言葉が私たちの心に強く迫ってきます。

 

 主イエスは幸いなのは単に平和を好み、喜ぶ者ではなく、平和を実現する者が幸いであると呼びかけています。

 

 幸いなのは、平和は有難く、人間が人間らしく、安心して、希望や夢をもって、お互いが共に協力して生きられる必要不可欠な尊いものであり、また神が人類を救う神の国を実現する働きに参与し、神の労働者になるという光栄あるものであるからと言っています。

 

 平和を実現する働き手になる人は、どんな人なのかというと、それは、相手を大切に思う心、赦し愛する心、相手の良さを見ることに長ける心、さまざまな違いにある対立や憎しみそして軽蔑を乗り越えて、皆一人の人間である、かけがえなさを持った人間であると理解する心などを持つ人であると言える。

 

 自己中心的であり、愛の心の貧しい私たちであっても、敵意を取り除き、差別や偏見を受けている弱い立場に置かれている人に寄り添い、共に生き、敵を愛する心と命にあふれる、平和と命の主であるキリストを信じることによって、キリストの命と力を身につけられて、その働きに参与できる。だから幸いであると言われます。

 

 平和を実現することがどんなに困難であるか、それは戦争の絶えない歴史やこれまで戦争に加担してきている教会の姿を見ればわかるし、戦争が起きる危機がある今、平和の実現に希望が持てない。

 

 時が来れば、歴史の主であり、平和と命の主である生ける神が、国が国に向かって剣を上げずに、戦うことをしない平和な世界を実現する預言があり、世の中には実際にキリストによる一致や生ける神の平和の働きがみられる。ここに希望があり、幸いがある。

 


 

 2018年7月29日 

   題:「権威と力の主」 聖書:ルカ福音書431節~44

 

 主イエスは、神の子として、救い主として、神の国の福音を宣べ伝える特別な使命を自覚しながら、人々に神の教えを語り、さまざまな業を行いました。

 

 人々は、主イエスの言葉に非常に驚きました。つまり、その言葉に感動し、圧倒され、心が強く動かされるものを感じ、これまで経験したことのない、律法学者たちにも見られない、神が共におられて働いている権威と力を感じたのでした。

 

 権威と力はどんな形で表されているのかというと、それは、汚れた悪霊に取りつかれた人に向かって、「この人から出ていけ」という言葉をかけて、その人を苦しめ、恐れを抱かせ、絶望させていた恐ろしい悪霊を追い出し、解放し、自由にし、平安と希望を取り戻させて、人間らしく自分らしく生きていくことができる命を与えるにことによってです。

 

 もう一つは、病にかかり、いろいろと世話を受け、仕えられ、助けられていた人が癒されて、癒される喜びに浸っているだけではなく、そこから立ち上がって、今度は人を助け、人に仕え、人を助ける人に新しく作り変えさせることができることによってです。

 

 神の権威と力を与えられていた主イエスは神の国が近づいていると宣べ伝えています。つまり、この世は悪魔のような不気味な力に支配されているのではなく、支配しているのは生ける神である、愛と平和をもたらす、真の勝利者である、生ける全能の神に支配されている。だから心配になり、恐たり、絶望することはない。安心して、希望をもつて生きなさいと呼びかけています。

 

絶えず神と対話し、祈るイエスの姿は、神を信じて祈ること。そうすれば、神が共におられて、新しい人間に作り変えられていく力が与えられることを教えています。

 


 

 2018年7月22日  

   題:「まことの礼拝」 聖書:イザヤ書111節~20

 

 イスラエルの人たちは、預言者イザヤからの「神に耳を傾けていない、真に神に聞くように」という非難に対して、自分たちは、捧げものもちゃんと行っているし、決められているさまざまな集会・祭りごともしっかりと守っているし、日々の祈りも欠かさずにして、礼拝をささげているという反論をしています。

 

 彼らの反論に対して、イザヤは、あなた方の礼拝はまことの礼拝ではなく、偽りの礼拝であると厳しく指摘しています。つまり、彼らの礼拝はうわべだけの、心のこもらない、心から悔い改めのないものであり、自分たちの行いをただ神に聞くことの手段として考えまた、行いによって神の恵みと赦しが得られると誇っているが、それは間違っている。だから神は喜ばないし、忌み嫌い、集会を憎み、祈りを聞かない。それらは御心にかなっていないと指摘します。

 

 御心に叶うためには、悔い改めて、悪を行うことをやめなければならないし、祈りを自分のためだけではなく、他者のためのとりなしの祈りでなければならないし、特に弱い立場にある人に寄り添い、共に生きていくことが必要になる。

 

 悔い改めのない捧げものや集会及び祈りは、偽りの礼拝であり、心からの思いがなければ、神は喜ばれないし、自分だけではなく、他者のことを考える、特に弱い立場に置かれている人たちとのかかわりのある礼拝でなければ、まことの礼拝にはならないと。

 

 イザヤは彼らの礼拝はまことの礼拝になっていない。だから神の裁きを受けて、国は崩壊寸前になっている。しかし、イザヤは、この裁きは最後通告ではない。まだ望みがある。本当に悔い改めて、真に神に聞くならば、不可能なことを可能に、黒を真っ白に、呪いを祝福に変えられる、全能の生ける神が働いて、囚われの状態から開放して、国の復興を成し遂げてくださると約束しています。

 


 

  2018年7月15日

 題:「神に耳を傾ける」 聖書:イザヤ書11節~10

 

 人と人との関係において、円滑な関係を築くためには聞くことが必要不可欠であり、またそれ以上に神と人の関係においてはより大切であり、聞くことができずに破綻する深刻さは、神と人の関係においては、より深刻になり、救いか裁きか、生か死か、祝福か呪いかが決まってくると言っても過言ではありません。

 

紀元前700年前後に活動した預言者イザヤが、イスラエルの民に、「耳を傾けて、神に聞き従うように」としつこく語り掛けています。

 

イスラエルの民は自分たちを神が自分の子として選び、やさしくし、深く愛し、守り続けていたのに、恩を仇に返すようなことをして、主人がだれであるかをしっかりわかって従っている家畜よりも劣って、父である神に背き、侮り、聞き従わずに、偶像なる神々に心を寄せていたのでした。

 

神はイスラエルを悔い改めさせるためにさまざまな懲らしめをしてきましたが、何の効果もなく、彼らは、エルサレムの町だけ残り国が崩壊寸前になっていても、そんなひどい状態になっても、かたくなな状態であり、神に縛られずに自由を得たい、偶像なる神々に頼んで、自分たちの願いや欲望を満たしたいという強い思いがあり、聞き従うことをしませんでした。

 

 神がしつこく聞き従うように言ったのは、神に縛られていてこそ真の自由が得られるし、命を初め良きものはすべて神から生まれ、神が与えてくれるものであることを知ってほしかったし、全滅させずに、わずかな者だけを残したのは、神はイスラエルを通して救いを実現していくこと、神の国を実現していくためには、彼らを選び、用い、必要としていたからでありました。

 

神は、イザヤを通して、神の願いと思いを信じて、悔い改めて、耳を傾けてほしい、それを待っていると強く語ります。

 


 

2018年7月1日

:「神の知恵なるキリスト」 聖書:コリント書一118節~25

 

 教会の使命の一つが宣教です。福音を宣べ伝える宣教が使命の一つです。宣教の使命は、行いや業によってではなく、信ずることによって人を救うためであり、信ずるためには、聞くことが必要であり、聞くためには、福音を宣べ伝える人が必要であるからです。

 

 救いを得るために信ずることが必要とされたのは、行いや業によっては私たちは神に義とされ、祝福されることができないからであり、そのため神は人間にただ信頼し、信ずることを求めたからであり、その救いを自らの手によって、つまりイエスの十字架と復活によって実現されていて、実現されている神の救いを受け入れ、信ずるだけで、人間において実現していくことになるからです。

 

 奇跡などのしるしを通して神の救いを得ようとするユダヤ人や理性や知恵を働かせて神に辿り着こうとするギリシャ人にとって神の知恵や力が愚かに思えたのは、行いがなくて、ただ信ずることによって救いを得ようとするからであり、十字架につけられたキリストが神の知恵と力であると宣べ伝える事柄についてでもそうでした。

 

 彼らが、十字架につけられたキリストは神の力と知恵であることが理解できずに愚かに思えたのは、十字架に愛があることを、神の豊かな、無上の愛があることがわからなかったからであり、他者を赦し、他者と生きていくために、受けた傷の悲しみと戦い、怒らずに忍耐し、罵られても罵らず、言えるべき文句を言わずに、ただ他者を配慮する思いを優先して生きる愛というのが人には弱く、愚かに見えたからであり、決定的なことは、彼らの力や知恵には愛がなかったからであり、だから意味がないと言われています。

 ばかばかしいと思われることでも信じて救われた者はダイナマイトのようなすごい神の力が働き、困難中にあってもへこたれずに、倒されずに、望みと喜びを忘れずに生きていくことができるのです


 

2018年6月24日

:「イエスを誘惑する悪魔」   聖書:ルカ書41節~13

 

 私たちは日常の生活の中で、さまざまな形で試みられています。例えば学校や会社などの試験で能力や人格が試されたり、子供が親の愛を試したり、神への信頼が試されたりするなどです。

 

 主イエスが悪魔から誘惑を受けられていることに対して、神の子が何で試みられるのか、という疑問がでてくるところですが、イエスでさえ試みられているのであるから、私たち人間がいろいろと試されることは当然ありうることであると思えば、ホットできます。

 

聖書はイエスが試みられているのは、私たち人間を助けるためであり、神が荒野に追いやり、試みられ、これから救い主としてどのように生きていけばよいか、人間をどのようにして救い出していけるかという課題の答えを得るためであると語っています。

 

悪魔が主イエスを誘惑している狙いは何かというと、それは、アダムとイブがヘビに誘惑された創世記の記事が示しているように、神から引き離すことであり、神を必要とせずに、神なしで生きていき、神のごとく生きようという思いを与えることであり、神の支えや愛を信頼することができなくさせるということでした。

 

 主イエスは悪魔の誘惑に対して、徹底して、神の言葉をもって反論し、試みに勝利されています。つまり、一人の人間として、生きていくためには神の言葉の養いが必要であり、霊的に満たされていてこそ真に安らぎを得られるし、権力などの偶像なる者に頼らず、唯一の生ける神である方を拝み、信頼することであり、神を自分のために都合よく利用しないで、すべてをよりよく配慮したくださる神にすべてをゆだねる生き方を示されて、試みに勝利されています。

 

 主イエスは、神に造られた人間であるというところに固く立ち、生ける神だけにすべてを賭けて従っていくという固く信仰に立つことによって、生ける神からの豊かな祝福を受けられています。

 


 

2018年6月17日

:「救いのしるし」   聖書:イザヤ書 71節~17

 

 これまでの歩みの中で、心を騒がせ、心を乱し、心が沈むような厳しい状況にあるときに、私たちはどのような対応をしてきていたのだろうかと思いめぐらす時、さまざまな対応が浮かびます。

 

 それは、現実から目をそらして、他のことで紛らわして過ごしたり、時間が解決すると思って、ただひたすら我慢し続けてきたり、その場しのぎの対応であったりして、根本的な解決をしてこなかったことが多かったようにも思います。

 

 本日の箇所で、預言者イザヤが示しているメッセージは本当の解決がここにある、つまり、信仰にある。ただ神を信頼することにあると確信をもって伝えていることです。

 

 紀元前8世紀頃、ユダの国(南イスラエル)の王であったアハズが、北イスラエルがアラムの国と手を組んで、ユダの国に攻めてくるという知らせを受けて、ひどく動揺していた時に、預言者イザヤがアハズ王を励まします。

 

イザヤは、二つの国が攻め込んで、南イスラエルを滅ぼすという企みは絶対うまくいかない。だから落ち着いて、静かにしていなさい。恐れずに心を強くしなさいと伝え、この神の言葉を信じなければ、守られず、持ちこたえられず、だめになる。神の言葉が真実である確信を得るためにも祈ってしるしを求めなさいと語ります。

 

 アハズ王が、私は求めないと答えたのは、解決はアッシリアの国に助けを求めることにあると思い、神の助けを信じ、信頼することができなかったから。ここに信ずることの難しさが示されている。

 

 イザヤは、軍備に頼り、人間に頼っても根本的な解決にはならない。本当の解決は、愛と平和をもたらすために日夜生きて働いておられる、全能の生ける神を固く信じて、救いのしるしを祈り求める信仰を土台とする生き方を抜きにしてはあり得ないと語っています。

 


 

2018年6月10日

:「裁きと救いと召し」   聖書:イザヤ書 61節~13

 

 「誰が我々のために働くだろうか」という神の声を聴いたイザヤは、「私を遣わしください」と応え、預言者の道を歩み始めています。

 

自分の夢を捨て、預言者の働きも苦難を強いられることが言われる厳しい状況の中で、モーセやエレミヤと違って、困難を乗り越えて、イザヤは主体的になり、積極的になって、神の求めや期待に応えようとした。何があつたのか。応えようとした根拠は何か。

 

 それは、神の期待に応えていくことの光栄さであり、神のために働くことに意気を感じたことであり、神のために生きることが真に人のためになると思い、神のために働くことによって、自分が高められ、豊かにされ、尊いものになれると思ったからかもしれない。

 

 決定的な根拠は、万軍の主であり、生きて働いておられる大いなる神に出会い、大きな喜びと望みを得たからかもしれない。

 

 イザヤが預言者としての召命を受けたのは、40年間南イスラエルの国を治めた名君ウジヤ王が死んだ時、彼が神殿に行き、祈っていた時でした。この時、彼の中には何か恐れや行き詰まり感があったのかもしれません。

 

この時、光り輝くセラフィムが現れ、圧倒的な生ける神の臨在に触れ、自分の弱さや罪深さをいやというほど気づかされ、このまま自分は滅び、死んでしまうのではないかと裁かれる思いになると同時に赦されているという思いも与えられる中で、預言者としての召しを感じています。

 

 イザヤは、神は、ご自分の業を行うために必要とし、選び、期待し、用いられるのは罪人であるという御心に目が開かれ、主体的になって、預言者としての厳しい歩みに突き進んでいった。

 

 イザヤの召しを通して示されているのは、神は私たちに対しても、神のために働くものは誰であろうかと呼びかけていることです。

 


2018年6月3日

:「キリストにつながる私たち」

 

聖書:コリント書Ⅰ 1212節~31

 

 私たちはさまざまな違いがある中で生きています。私たちは顔かたち、性格、考え方も違うし、民族・人種や思想・信条にも違いがあるなど、様々な違いがある中で生きていかなければなりません。

 

 一つとなって、バラバラにならず共に生きていくためには、さまざまな違いを拒絶したり、排除せずに、差別や偏見を持たずに、又同じでなければ仲良くできないということもしないで、そうではなくて、違いを認め合い、尊重し合っていくことが必要になります。

 

 パウロは、さまざまな違いがあることは必要なことであり、それぞれが皆尊厳さを持ち、弱いと思われるところこそ大切な働きをしているし、優れていて、強くて、豊かさを持っている人は、高ぶらずに、見下したりせずに、弱い人を尊重でき、弱い人はねたんだり、すねたり、自己卑下もせずに、優れた人をほめたたえることができ、他人の苦しみを自分のこととして受け止めて共に苦しみ、お互いを自分を高め合うことができる存在として認め合う愛の共同体、言い換えれば、皆が自分の居場所が見つけられ、心地よさを感じることができる愛の素晴らしい共同体に言及しています。

 パウロは、愛の共同体とは全く異なっていて、対立があり、自己中心で、身勝手に生きている人が多くて、一つになれずにいるコリント教会の人たちにこのことを訴えているのは、単に理想を語っているのではなく、「私には夢がある」と語ったキング牧師のように、必ず実現できる夢としての確信があったからです。なぜなら、教会には愛が支配しているから、愛であるキリストが共におられるから、人々はそのキリストにつながっているから。キリストの愛に支配されているから、だから愛に生きようとする共同体が実現していく、そう確信して、失望せずに、希望をもって語っています


 

2018年5月27日

:「元気を出しなさい」 聖書:使徒言行録 2713節~38

 

 キリスト者の世における責任や貢献の一つが望みを語ることであると思います。すなわち、絶望的な状況の中にあっても、あきらめてはならない、なんとかなる、大丈夫だ。だから元気を出しなさいと励ますことができるのがキリストの使命の一つです。

 

 ローマ行きの航海で、幾日も続く暴風に会い、パウロ達が乗っていた船が沈没しそうになり、助かる望みが全く消え失せて、パウロ以外の人々は絶望し、何日も食事ができなくなっていました。

 

 パウロは、人々に元気を出しなさいと何回も励ましています。ほかの人たちと同じ危機に置かれても、パウロは必ず助かると言って、励ますことができています。誉れある振舞いができています。

 

 パウロがこのように助けられる望みの確信を持っていたのは、彼自身の強い力によってではなく、神からの助かるという約束の言葉を彼が直接聞き、その言葉を信じていたからでした。

 

 私たちは、直接神の言葉を聞くということがなくても、聖書を通して、すべてを支配し、支え、救いをもたらし、安心して生きていけるように配慮してくださる大いなる、全能の、愛に満ちた生ける神が共にいてくださるという約束の言葉が与えられています。

 

 だから私たちは、様々な試練に会い、死などの恐怖を感じ、絶望的な状況にいる時、絶対必ず助かると言えないが、絶対助からない、奇跡は起こらないとも言えないし、御心ならば、奇跡が起きて、助かる可能性はあるという望みを持てるのではないか。

 

 神に愛されているという約束をしっかりと信じていくならば、様々な危機や苦悩を自分を磨き、高めるための課題としてしっかりと受け止めることができ、絶望せずに、大丈夫だと思え、望みが得られて、元気を出していくことができるのではないか。

 

大事なこととして問われるのは、固い信仰があるかどうかです。

 


 

2018年5月20日

題「聖霊の賜物を生かして仕える

聖書:ペトロの手紙 Ⅰ 11節~2節 47節~11

 

 ペトロは、さまざまな試練の中で苦闘している各地にある諸教会に対して、励ましや慰めの手紙を送っています。

 

厳しい試練によって、人々の信仰が揺らいでいるのではないか。しかし、万物の終わりが迫っているから、信仰に固く立ちなさいと勧めています。

 

あなた方は、聖霊の力を受けて、新しくされ、思慮深く振舞い、身を慎んで、よく祈る信仰に生き、教会が誕生し、人々は最も重要なことは、愛に生き、他者を赦すことであり、それがみ心であることを知り、傲慢にならず、分別をわきまえ、謙虚になって、お互いを認め会い、お互いが与えられている賜物を生かし合い、協力して共に生き、皆が自分の居場所を見つけて生きる信仰に固く立ちなさい。試練に負けて、信仰を捨て、賜物を生かし合うことができず、不平を言い、ねたんだり、卑屈にならないようにしなさいと。

 

 試練を与えるこの世の様々な力はいつかは終わりが来て、滅びてしまう。いつか必ず神の栄光が現れる時が実現し、すべてを支配しているのは生ける神であり、神の愛によって私たちは支配されていることが明らかにされ、神を信ずる信仰が真理であることが証明され、信仰による苦労が報われ、あなたの人生は真実なものであることが示されて、信仰に生きることは無駄ではなかったということが確信できる時が必ずくる。

 

 生ける神はご自分の栄光を実現する時、信仰に生きた人々を用いられる。つまり、生ける神は、ご自分のいのちの書に、覚書に、信仰者の名を刻み、忘れないで、覚えておられ、いろんな形で用いられて、救いの業を行う栄光を実現される。だ

から決して信仰は無駄にならないから、しっかりと信仰に生きるようにと励まします。

 


 

2018年5月6日

:「喜んで弱さを誇る」

聖書:コリント書Ⅱ12110

 

 自分にいろんな弱さがあれば自信がもてなくなり、恥ずかしくなり、つらくなり、苦しくなります。そのためにその弱さを隠そうとしたり、弱さを知られたくないために、無理に強がったり、威張ったり、他者を見下したりして、パワハラなどが起きます。それほど弱いということは私たちにとって嫌な耐え難いものになります。

 

 パウロも弱さが自分を苦しめ、つらくさせていると受け止め、その弱さがなくなるように必死になって祈るほどに、その苦しみは大きく深刻なものであると感じています。

 

 しかし、一転して、パウロは弱さを誇る、大いに喜んで誇るという不思議な驚くべき言葉を語っています。

 

 彼はどうして弱さを誇ると言えるようになったのでしよう。開き直り、やせ我慢、から威張りからきているのでしょぅか。そうではないようです。弱さが高ぶらせずに、謙虚にさせる豊かさを与えるからでしょうか。それは決定的な理由ではないようです。

 

 決定的な理由は、弱さにおいて神の力や栄光が現れる。神は救いの御業を行い、ご自分の栄光を実現するために弱さを必要とし、弱さを用いることをパウロは確信できたからです。

 

 自分の弱さ、伝道者として適格者であるのかと失望させていた罪深いという弱さがあっても、憐れみ深い神は、罪を赦され、逆にその罪があるからこそ、選ばれ、必要とされ、伝道者としてふさわしい者として用いられている、罪を通して神は、聖霊を注ぎ、伝道者に必要な力はすべて与えておられる。神の恵みは十分に注がれている。だからあるがままでよい、弱さに生きてよいと思って、それが自分らしく生きることだと思え、平安になり、囚われから解放され、自由に生きることが真の強さであるとパウロは確信できたからです。

 


 

2018年4月29日

:「恐れず、語り続けよ」

聖書:使徒言行録18111

 

 ゼロからの出発であり、しかも道徳的に乱れていたコリントの町で開拓伝道し、反発やののしられるという恐怖に遭遇させられる中で、パウロが腰を据えて一年半の間勇気を出して福音を宣べ伝え続けられたのは、パウロ個人の強い精神力だけではなく神からの励ましがあったからです。

 

 このことは、人間は皆助けを必要とする弱い生き物であり、弱さは情けないことでもなく、大切なことは、よりよく生きる力を与える真に頼るべき存在と共に生きることであることを示しています。

 

 神からの励ましの言葉とは、「恐れるな。語り続けよ。わたしがあなたと共にいる。あなたに危害を加える者はいない。この町にはわたしの民が大勢いるからだ」という言葉でした。

 

 この言葉によって、パウロは、伝道は神と共に行う働きであり、神が責任を持つ働きであることが確認でき、結果について責任を感じる必要はないし、神はすでに救われるべき人を確保しているし、結果はすべて神にゆだねて、ただ福音を宣べ伝えていくだけでよいと思え、気持ちを楽にでき、他人にこびずに恐れずに勇気を出して語り続けることができたのではないか。

 

 神の働きに参与する伝道には、神の恵みと祝福を受ける報いがある。つまり、心豊かに生きる人を造る福音の豊かな働き、その豊かさに生きる。魂の救いという福音の尊い働き、その尊さに生きる。

 

神の国を実現する福音の偉大な働き、その偉大さに生きる。この恵みによって、大いなる喜び、誉れ、望が生まれ、パウロはさまざまな困難や苦しみを乗り越えて恐れずに伝道することができた。

 

 パウロが感じた勇気の最大なる根拠は、共にいてくださる神は生きておられ、すべてを創造し、支配している全能の愛と平和の神であることを一途にひたすら信ずる信仰です。

 


 

 2018年4月22日

:「知られざる神」

聖書:使徒言行録171634

 

 その当時、文学や芸術が盛んで、文化的中心地であったアテネの町に多くの偶像なる神々が祭られているのを見て、パウロは憤慨しています。

 

 パウロの憤慨は決して偶像なる神々を信じていることへの軽蔑ではなく、そうではなく、パウロは人々が信仰のあつい方であることを認めているように、信ずる心には、自分や人間は完全ではなく、限界をもっており、一人で完全により良く生きていける力や知恵はないし、大いなる存在に依存し、その存在に守られ、助けられ、支配されることによってよりよく生きていける存在であるという真理と深い知恵に生きていると認めていることになります。ですから憤慨する心には軽蔑ではなく、伝道する熱意や福音のすばらしさへの確信そして人々への愛が表れていると理解できます。

 

 パウロは、「知られざる神に」という祭壇があるのを見て、知らずに拝んでいるものを知らせようと言って、次のように語っています。

 

「その方は、万物を造られた方で、すべてを与え、支配し、救い、助けてくださる方であり、人間が考えて作り出した石や鏡などの像ではなく、ご自分から人間の前に現れ、啓示し、人間の歴史を支配し、私たち一人一人を顧み、助けて、生きて働いている創造主であり、全能の神である。この生ける真の神に立ち返りなさい。そうすれば平安、喜び、感謝そして命と自由が与えられる」と伝えます。

 

 パウロの説教は旧約聖書に記されていることを信じ、そのことが主イエスの十字架と復活の出来事によって証されていることを信じ、そして彼自身が復活されて生きている主イエスに出会い、大いなる力に圧倒され、悔い改めさせられ、赦され、愛される経験をし、いつも共にいて、支え、導き、助けてくださる生ける神を信じることができる信仰から来ています。

 


2018年4月15日

 

:「誇る者は主を誇れ」

聖書:コリント書Ⅱ101218

 

 私たちには誇りが必要であり、誇りが持ててこそよりよく生き、豊かに生きられ、どこかかっこよいし、魅力があります。ですから、皆私たちは誇れる人間でありたいという欲求を強く持っています。

 

 聖書は、誇りをもって生きることができない人がいるのか、いやいないし、皆誇りに生きることができると断言しています。このことを表しているのが、「誇る者は主を誇れ」というパウロの言葉です。

 

パウロも、誇りが必要であり、なくてならないものであると言いつつ、ただその誇り方に正しいのと、間違ったものがあると諭しています。つまり、傲慢にさせ、おごり高ぶらせ、人間性を貧しく、愚かにさせ、卑しくさせる、悪い誇りがあると諭しています。

 

 間違った誇り方をする人たちは、自分自身を推薦し、自分の能力や行いを挙げて、他人と比較して、他人を過小評価し、自分を過大評価しながら、人よりも優れていると誇り、他者を見下し、軽蔑するような人間になってしまうとパウロは非難しています。

 

 誰よりも誇りうる業を成し遂げていたパウロがうぬぼれずに、謙虚になれる人間性を持てたのは、自分の働きはすべて神がなさった業であり、ただ自分は神に用いられただけであり、すべては神から与えられた業であり、赦されて生かされている自分であるという自覚があったからでした。だからパウロは主を誇ることしかできなかつたし、主を誇ることによって自分も豊かな業を行い、誇りを見出すことができた。だから誇る者は主を誇れと主張しています。

 

 主を誇るということは、神の愛と慈しみを信じ、大事にし、そこにすべてを賭けて生きることであり、神は神の愛と慈しみに生きる者を神の業に用いられるから、神の慈しみに生きる者は誰でも自分自身に誇りうるものがなくても、夢中になれる誇りうるものが与えられ、謙虚さを保ちながら、豊かに生きることができると言います。

 


2018年4月8日

 

:「人生の同伴者」

聖書:ルカ福音書241335

 

 私たちが復活したイエスを信じ、復活の信仰に本当に生きているかどうかを判断するのが心が燃えているかのかどうかです。つまり悲しみや苦しみそして恐れにとらわれずに、前向きに、力強く、望みを持って生きているかどうか、さまざまな困難があっても、その困難を乗り越えていくことこそが人生の楽しみであると思って、強く生きる生き方があるかどうかが問われるのかもしれません。

 

 復活を信じていない、エマオへ向かう二人の旅人の心は暗く、嘆き悲しみ、不安や恐れの中にありました。この二人に主イエスが近づいて、共に旅をすることになっても、彼らは、同伴者が復活したイエスであることに気づかなかったし、女性たちから、墓は空っぽであり、天使がイエスはよみがえられたと言っていたと聞いても信じることはできませんでした。

 

 彼らが信ずることができなかったのは、イエスは死んで墓に葬られたという思いに強く囚われていたからであり、必ず救い主は苦難を経て栄光を受ける、十字架で死んだ後に復活するという約束の言葉を信じていなかったからであるとイエスから諭されています。

 

 彼らがイエスだと気づいたのは、イエスが主人としての権威をもってパンを割く食事をしていた時であり、彼らが僕のように心を低くしていた時でした。

 

 イエスへの期待が外れて失望した思いを話しながら旅をしている二人に主イエスは近づき、「恐れることはない」と言って同伴者となっているこの物語は、イエスの名によって二人三人が集っている教会において、私たちにおいても、生きているイエスが必ず共にいてくださるという約束が実現することを示しています。

 

 この約束の言葉をしっかりと信じることによって、私たちの人生に同伴者なるイエスがおられ、心を燃やす生き方が実現します。

 


2018年4月1日

 

:「命の勝利」

聖書:マルコ福音書16111

 

 何かがダメになっていたのが元に戻って良かったと感じる復活とは違って、死んだイエスが新しい命によみがえるイースター(復活)の出来事は、ありえないことであるし、馬鹿げていて、愚かしいことであり、良いこととして信ずることは本当に難しい。

 

 愚かで、バカバカしいと思えることを聖書が本気で、一生懸命になって伝えているのは、復活は希望であるからであり、真理であり、歴史的事実であり、何にも代え難い宝であるからです。

 

 死んで墓に葬られて三日目の日曜日の朝に、マグダラのマリア達がイエスの身体に香料を塗るために赴くと、墓は空っぽで、白い衣を着た若者から、「あの方は復活なさってここにはおられない」と言われ、彼女たちは恐ろしくなったことが記されています。

 

 復活は、イスエが言われたことや行ったことは御心に適い、神かに遣わされた救い主であることが真実であり、また恐ろしく不気味な力である死が滅ぼされ、命が勝利した出来事であり、信ずる者は、生きている水が滔々と流れるごとくに、飢え渇くことなく、生き生きとして、ワクワクしながら、生きる命が得られ、そして私たちを支配しているのは、裁く力ではなく、愛の力であることが証明された出来事です。

 

 復活が幻でもなく、作り話でもなく、歴史的事実であることを示していると思えるのは、弟子達の変貌です。つまり、かれらは、復活したイエスに出会ってから、臆病であったのが、雄々しくなり、命を懸けて、イエスは復活した、この方こそ救い主であることを力強く証しするようになり、本当に見違えるように変わったことです。

 

復活は理性や分析などによって解ることではなく、ただ信ずるしかない。幼な子のように、謙虚になって、素直になって、死に勝利されて永遠の命に復活して生きているイエスを信ずるしかない。

 


 

2018年3月25日

  題:「救い主イエスの死」

  聖書:マルコ福音書153341

 

 十字架上で、イエスは、「わが神、わが神、なぜわたしを見捨てになったのですか」という悲痛な、絶望的な叫びをあげておられます。

 

 この絶望的な叫びには、救い主としての偉大さや毅然さが見られない。あまりにも弱弱しく、臆病で惨めであると思い、イエスには救い主としての自覚はなかったし、救い主でもないことの表れだと理解し、つまずく人もいるに違いありません。

 

 ただそのように理解することは間違っていることを示しているのが、十字架上のイエスを見て、「この人こそ神の子である」と理解し、イエスを普通の人間ではなく、特別な存在であると告白できた百人隊長の存在です。この信仰告白をどう理解すればよいのか。

 

 一つは、イエスが侮辱され、創造を絶するような苦しみに沈黙を守り、じっと耐えて十字架の道を歩む姿から、この絶望的な叫びは、死の恐怖におびえているのではない、と理解することです。

 

 もう一つは、「なぜお見捨てになったのですか」という絶望的な叫びの理由は、神から救い主の使命を与えられ、多くの人を救いに導く約束を得ていたのに、実際は弟子や他の人々から見捨てられたのを見て、「神にも見捨てられたのではないか」思い、どうしてですかと問いかける叫びであると理解することです。

 

 三つ目は罪深い人間の身代わりとなって裁かれ、罰せられ、死に追いやられるイエスは、死によって神との関係が断ち切られることがどんなに悲惨であり、いつも神と一体であつた状態から切り離されるイエスにとっては特にどんなに恐ろしいことであるかがよく解っておられるところからの絶望的な叫びであると理解することです。

 

この絶望的な状況に於かれているにも関わらず、投げ出さないで、わが神、わが神、と呼び絶大な信頼を寄せている姿として理解し、この姿にこそ救い主としてのしるしがあると理解することです。

 


 

 2018年3月18日

 題:「イエスを罵る人達」

 聖書:マルコ福音書152132

 

 つばをかけられ、罵られ、バカにされ、侮辱され、人格を否定され、虫けらのように扱われ、みじめな、悲惨な状態に置かれているイエスの姿に、おぞましさ、恐ろしさを感じます。

 

「神よ、なぜ沈黙を守っておられるのですか。あなたが義であり、愛の存在であり、生きて働いている存在であることが解るように何か仰ってください」と祈らずにおれないような沈黙があります。

 

 「神よ、なぜ沈黙されているのですか」という問いかけに、神は沈黙の中でしっかりと答えを出しておられるのではないか。それは、イエスを罵る人達がどんなに愚かで、邪悪で、みじめな存在であることがはっきりと浮かび上がることによって、裁かれているのは、彼らであることが見えてきていることによってです。

 

 彼らの「他人を救ったのに、自分は救えない」と言って侮辱している言葉は、彼らはイエスが愛に生きておられたことを認めることになり、愛に生きることが奇跡などのすごい力ある業よりもより尊く、より豊かであり、より偉大なことであることが解っていないし、愛が救いの最も根源的なものであることを理解していないことが暴露されて、彼ら自身が裁かれていることが見えてきます。

 

イエスが虫けらのようにひどい扱いを受けていることは詩編やイザヤ書の預言が成就されている出来事であり、そこに神の働きかけがあり、神は沈黙せずに、イエスをしっかりと見守っていることになり、沈黙の中で雄弁に語っていることが示されています。

 迫害や差別そして冤罪などの不条理な苦悩を受けている人々は、自分たちは決して裁かれ、呪われ、見放されてはいないし、むしろ自分たちの悲しさ、絶望をよく解っておられる、大いなる生ける神と救い主イエスが共にいてくださるという確信が得られ、慰められ、癒され、しつかりと望みに生きることが出来るにちがいありません

 

2018年3月11日

   題:「死と向き合い、祈るイエス」

   聖書:マルコ福音書143242

 

 十字架の苦難と死を迎える直前に、イエスは恐れ悶えていましたが、しばらくしたら、恐れから解放され、落ち着かれ、心晴れやかになり、勇気をもって死に向かって突き進んでいかれました。

 

 この変化は祈りによるものでした。真剣に、本気になって祈る中で、神から力と知恵を与えられたのでした。ことあるごとに祈られたイエスを見習って、私たちも絶えず祈り、その祈りが力ある祈りになっているのか、私達の祈りの真剣さ、本気度が問われます。

 

 ゲッセマネでの恐れ悶えるイエスの祈りをどう理解すればよいのか。弱く、臆病で、死の恐怖に敗北する私達と全く違う力に満ちたイエスが、怯え悶えた状態になられたのか不思議に思います。

 

 考えられるのは、自分の死に恐怖を覚えたのではなく、神から遣わされ、神の教えと愛を伝えた自分が呪われるようにして、みじめな姿をさらけ出し、敗北者のように死んでいくことが弟子達や人々をつまずかせ、神の力と愛を信じられなくなり、神に躓き、神から離れて、信仰によって与えられていた賢さが消え、愚かなひとに戻り。豊かさが消え貧しくなり、尊さが消え卑しくなり、古い人間に堕落していく人が出てくるのを恐れる思いがあって、この杯を取り除けてくださいという祈りが出て生きていると言えます。

 

 ゲッセマネの祈りに、イエスは、3人の弟子達を連れていかれた理由は、彼らに直面する苦難や試練の備えを身につけさせる願いがあったからかもしれません。つまり、困難や試練の備えこそ祈りであり、祈りこそ希望をもって困難に耐え乗り越えていく力と知恵が得られることを示し、具体的には、人間を救い、幸いをもたらし、祝福となるところのみ心が行われますようにという祈りを祈ることを示し、この祈りを祈り続けていくことによって正しい、深い祈りと成長し、万全な備えが身につけられるようになると思われたから。

 


 

 3月4日

    題:「ペトロの裏切り」

  聖書:マルコによる福音書14章27節~31節、66節~71節  

 

 主イエスが十字架の道を神のみ心と信じ、苦難や死の恐怖に打ち勝ち、まっしぐらに、ぶれることなく、毅然として突き進まれていく一方で、弟子たちは恐れて、主イエスから逃げて、主イエスとは関係ないと言って、裏切る堕落した姿が描かれています。

 

 教会の指導者であり、優れた伝道を成し遂げたペトロの卑怯な、ふがいない、罪深い姿が赤裸々に、正直に描かれているのは、どうしてなのかと不思議に思います。

 

 あるがままの姿を描いている理由は、初代教会の人たちが私達にぜひとも訴えたい大事なことや本当に分かってほしい大切なことや必ず受け入れたほしい尊いことがあったからかもしれません。

 

 一つは、教会の中心人物として働いた優れたペトロでさえ弱さや愚かさを持っているから、どんな人も弱さや愚かさを抱えているのは当然であるし、そのことに心を閉ざさずに、心を開いて、自分の弱さや罪を認め、悔い改めをすることが大事であり、そのことによって、心が浄化され、新しく生まれ変わり、さらに豊かに、大きく、優れた人間に成長できることを訴えたかったかもしれません。

 

 もう一つは、立派でもなく、正しくもなく、弱く、罪深かったペトロが神に愛され、御業のために必要とされ、用いられていることは、どんなに愚かであっても、人は皆神に赦されない人はいないし、どんな罪も赦さないことはないし、どんな人も赦され、必要とされる大切な人間であることをしつかりと受け入れてほしいという願いがあったのかもしれません。

 

 罪深いペトロが素晴らしい伝道者に生まれ変わるきっかけとなったのは、主イエスの毅然とした、愛溢れた言葉に出会い、弱く愚かな自分の赦しを確認でき、癒され、慰められ、尽きない涙を流すほどの深い悔い改めをし、新しい人に変わることができたからてす。

 


2月25日

 題:「終末の到来」

聖書:マルコ福音書13113節 

 

 私たちには避けられない死をどう迎えるかということは、大事な課題になります。突然に、思いがけない形で、前触れもなく、やってくるこの世の最後となる死を恐れから解放されて、安心して、穏やかな状態で、自分の人生はこれでよかったと思って悔いなく、感謝して迎えられることは幸いなことです。

 

 この幸いをもたらすことの一つが神の救いを得て生きることであるから、救いを与える信仰を最後まで耐え忍び、持ち続けなさいと主イエスは励ましています。

 

 主イエスが励まされているのは、信仰を持ち続けていくことを困難にする障害があるのが解っておられたからでした。つまり、ご自分をただ信ずる信仰によって救われることを否定しようとする、惑わす人が出てくる。また戦争や地震などの悲惨のことが起きる。権力者などの人々から迫害を受けたり、家族との関係が悪くなるという悲しみを経験する。これらのことは起こることが決まっていることであり、神が無力だから起きることでもないし、世の闇のような苦難はずっと続いて世の終わりがくるわけでもない。これが世の終わりではない。だから惑わされないように気をつけなさい。

 

さまざまな苦難に苦しんでいる時でも、決して一人ではない。聖霊を通して神が共にいて、あなた方を慰め、癒し、平安を与え、苦難に耐えられる力が与えられる。だから神の愛に留まり、信仰を捨てないで、しっかりと立ち続けて生きなさい。

いつか必ず、神が生きて働いている大いなる方であることがはっきりと明らかになる時が来る。主イエスの再臨があり、わたし達を真に支配している平和と愛の神の国が実現する終末が必ずやってくる。そう信じて、最後まで忍耐して、死に臨んでも安らぎと癒しをもたらす信仰に生き続けなさいと主イエスは励ましておられます。


2月18日の礼拝説教

「イエスの覚悟」

 

聖書:マルコ福音書11章1節~11節

 

 十字架への道を歩む覚悟を決められた主イエスは、ご自分を攻撃し、命を殺害しよう思っている権力者達がいるエルサレムの町にロバに乗って入っていかれています。

 

 闘いにふさわしいと思われる屈強な、たくましい軍馬を用いずに、柔和なロバを用いられたのは、イスラエルを救う王はロバに乗ってくることを数百年前に預言者ゼカリヤが預言しているのを意識して、ご自分こそ王として神の支配を実現し、人類を救い、人間がさまざまな恐れから解放されて、癒され、安心し、希望を抱いて生きることができる王としての使命を与えられているという確信があり、そのことを表そうとしたからではないか。

 

 主イエスはこのことが真実であると思われたのは、多くの人々が、その当時の習わしに従って、王を迎える時道に服を敷き、木の枝を敷いて、ホサナと叫びながら喜んで迎えたのを見た時であったに違いありません。

 

 主イエスを王として迎え、自分たちを救ってくれると期待した人々の中に、後で、心変わりして、権力者たちと一緒になって十字架につけよと叫ぶようになっています。

 

 人々がこのように変わったのは、主イエスが、力づくで、ローマをやっつけ、強い王としてふるまわずに、柔和なロバのように、仕える王として、人々を赦し、愛することを通して救いを実現する王としてふるまうことに失望したからでした。

 

 主イエスは、生ける神が、救い主として働くために必要なことはすべて備えてくださっていると信じ、すべてをゆだねられたように私たちに対して、ご自分を王として迎え、まず神の国と神の義を求めて、恐れを取り除き、癒し、慰め、安心して生きていけるように配慮する神の計らいと顧みにすべてをゆだねるように勧めています。