礼拝説教の要旨

 

2019年4月28日

   題:「豊かな恵み」  聖書:エフェソ書2110

 

 私たちが今、ここに、教会にいるのはどうしてか。それは、神の救いにあずかり、救われているからであり、私たちの行いや意志に関係なく、神からの賜物として、一方的な神からの招きによって、神の憐みと愛による恵みによって、救われているからです。

 

 私たちがこのことに気付き、合点がいき、信ずるならば、自分がここにいてよいのかと思って、心を閉じることなく、なぜここにいなければならないのか思って、心をかたくなにせずに、そうではなく、心地よい気持ちが生まれ、ここにいてよいのだ、いなければならないと思う思いを持つことができるのかもしれません。

 

 さらに心地よさを大きく膨らませるのが、神の恵みが限りなく豊かであるということです。パウロはこのことに気づかせるために、私たちを過去に心を向かわせ、これまでの生きざまにしっかりと向き合わせようとします。つまり、恥ずかしい思いや心を痛めるという思い、絶望してしまう思いを抜きにしては思い出すことはできない、死んだも同然の罪深い過去に向き合わせ、悔い改める中で、死んだも同然の罪深い自分が赦され、救われて、今ここにいることができるのは神の限りない豊かな恵みであることが示されます

 

 このことに気づき、納得し、悔い改めて、信ずるならば、私たちにおいて、さらに深くて、大きい、豊かな心地良い気持ちが生まれるはずであると訴えています。

 

 大きな豊かな心地良さを与える神の限りない豊かな恵みは、今が幸せであるだけでよいという思いにとどまらせずに、未来に心を向けさせ、これから何をすべきか、神の恵みにどう応えていけばよいか、良い業を行っていかなければならない、イエスが教えているように、小さくされ、弱い立場に置かれて、差別や偏見で苦しんでいる人たちに寄り添っていくという課題に気づかせます。

 


 

2019年4月21日

   題:「死・復活・希望」聖書:ルカ福音書24112

 

 いろんな形で、失敗したり、敗北している人が、あきらめずに、頑張り続けて、成功したり、勝利したりする時、復活という言葉が使われ、実際に復活した人を見ると、私たちはうらやましくなり、元気を与えられますが、その人から復活する力を与えられることはありませんし、できません。

 

しかしキリストの復活は、そうではなくて、私たちに復活する命が与えられることが示されています。例えば、ペトロなどの弟子たちが、弱さや臆病のためにイエスを裏切り、絶望してしまったけれども、復活したキリストに出会って、本当に新しくされ、生き生きとして、嬉々として、雄々しくなって、立ち上がって生きることができるようになった、ようにです。

 

だからキリストの復活は喜びであり、希望であると言われています。なぜなら、キリストの復活は、人間が絶対に勝つことができない死の力に勝利しているからであり、キリストが復活したのは、生ける神の力が働いたことによるからです。

 

死に勝利する復活の出来事を通して、生ける神は、全能の、創造主なる、すべてを支配している、唯一の永遠なる神であり、さまざまな権威や権力などのこの世の力がどんなにのさばっていても、生ける神の前にはむなしい存在であることが教えられています。

 

 十字架につけられ、死んで、墓に葬られ、冷たくなった体に再び命が与えられ、死ぬ前の体とは異なる霊の体によみがえり、今も生きているというメッセージは、ばかげた、荒唐無稽なことのように思い、受け入れることは難しい。ただ信ずるしかありません。しかし、信ずるならば、復活の力が与えられて、寝たきりの生涯を生きた水野源三さんのように、感謝し、喜び、心の安らぎを保って生きていける素晴らしい生き方ができると言います。

 


 

2019年4月14日

 題:「神の子の死」  聖書:ルカ福音書234449

 

 残酷な、むごたらしい、恐ろしい十字架の刑罰によって死んでいかれるイエスを見ていた人の中に、驚くべきであり、不思議なことですが、「この人は、本当に正しい人であった」と言って、神を賛美した人がいました。その人は異邦人の、ローマ軍の百人隊長でした。

 

 彼が神を賛美することができたのは、呪われるようにして、みじめで、無力なさまで死んでいかれるイエスの「父よ、私の霊をゆだねます」という言葉に驚き、感銘を受けたからかもしれません。

 

 これまでの生き方や働きが無駄になり、報われないのではないかという心配や神から見捨てられたのではないかという不安や恐れから解放されて、自分の思いをすべて捨てて、白紙委任するような気持ちで、安心して、すべてをゆだね切っている、イエスの神の計らいと配慮への信頼を見て、百人隊長は、イエスと共にいて、支えている、大いなる生ける神の臨在を実感できたからではないか。

 

 罪人として裁かれ、十字架のむごたらしい、残酷な刑を受けて、死んでいかれるイエスを見ていた群衆の中には、胸を打ちながら、悔い改めて、その場を去っていく人たちがいました。

 

彼らは、最初はイエスを神から遣わされた救い主として喜んで迎えたけれども、彼らの期待に応えない姿に、イエスは間違っていると思い、がっかりし、怒り、憎しみ、十字架につけることに賛成していましたが、十字架上のイエスの姿と言葉を見て、つまり、自分のことはすべて捨てて、ただ他者のために心砕き、他者の為に生きている姿に真の正しさがあることに気づかされて、間違っているのは自分たちであり、イエスを十字架につけたのは自分たちであるという罪に気づき、心から悔い改めたということかもしれません。

 

 彼らの中には、赦されている犯罪人を見て、赦されない人はいない、自分も赦されるという確信を得、安心した人もいるに違いない。

 


 

  2019年4月7日

      題:「十字架につけられたイエス」聖書:ルカ福音書232643

 

 主イエスが十字架につけられたのは、私たちの救いのためであるわけですが、その救いにはどんなことがあるのでしょぅか。

 

 一つは、慰められるという救いです。すなわち、神の子であり、尊い方であり、偉大な方である主イエスが、十字架につけられていく中で、非難され、バカにされ、侮辱されている姿を見て、私たちも人々から非難されたり、軽んじられたり、侮辱されることはそんなに特別な、致命的なことではないし、自分に価値がないと卑下する必要もないことが示され、また主イエスは自分の悲しみや苦しみを解ってくださると思えて、慰められるということです。

 

 二つ目は、十字架につけられ、苦しみ、死んでいき、何かをやりどけることに失敗したように見える主イエスの人生を通して、生きることで大事なことは、何か立派なことを成し遂げ、高い地位や名誉を得、金持ちになるという結果を得ることよりも、どんな思いで、どんな心構えで生きていくかであり、嘘をついたり、人をだましたり、人を犠牲にしたりせずに、うまくいかないことがあったとしても、不平不満を言わずに、感謝を忘れず、喜びに満たされ、望みをもって、愛に生きることが救いであることを教えています。

 

 三つ目は、あざ笑われ、軽蔑され、侮辱されても、落ち込んだり、絶望したりせずに、毅然とし、人を赦している主イエスの姿を通して、どんな苦難や試練があり、つらく、嘆き悲しむことがあっても、それらに負けずに、屈服しないで、堂々として生きることができるし、そのために人を赦し、困難なことも受け入れることができる力を与える神の赦しと神の愛に生きることが教えられています。

 

 主イエスが想像を絶するような、過酷で、みじめな、恐ろしい状態から解放され、愛に生き、毅然としてふるまうことができた力は、全能の、すべてを支配している生ける神が共にいるという確信です。

 


 

2019年3月31日

  題:「十字架への道に進む」 聖書:ルカ福音書192840

 

 主イエスは、神から遣わされた救い主であるという自覚をもって、ロバに乗ってやってくるというゼカリヤの預言に従うようにして、ロバに乗って、対立する宗教指導者たちが待ち受けているエルサレムの町に入っていかれます。

 

 この時、不思議な形でロバが備えられ、多くの人たちが「主の名によって来られる方に祝福があるように」と大声で、期待して、歓喜の声で迎えられることの中で、主イエスは、ご自分を救い主として遣わした神は救い主として働くために必要なことはすべて備えてくださるという確信を得たに違いありません。

 

エルサレムに入ることは、十字架への道に進むことであり、そのことをしっかりと理解していた主イエスには、悲壮感や恐怖感は感じられずに、というよりも、楽観的であり、何とかなる、大丈夫だという思いが感じられるのはなぜか。

 

それは、主イエスが剛毅な精神力をもっていたからなのか、青年特有の怖さ知らずからなのか。そうではなくて、強くさせている原因は、神にすべてをゆだねられたから、神は必ず救いを実現するという使命が果たせるために必要なことはすべて備え、見守り、祝福してくださることにゆだねられることができたからと言えます。

 

 主イエスがエルサレムに入っていかれるときに、先に立って進んでいくという言葉があるのは、私たちが後からついてこれるように、私が先に立って行き、道を開く、だから私に従ってきなさい、十字架を背負ってついて来なさい。そうすれば必ず神は報いてくださる。祝福してくださる、という思いが主イエスにあるのかもしれません。

 

 私たちが背負う十字架には、さまざまなことがありますが、病や挫折そして死などの苦難は逃げずに受け止めることが、憎しみは赦すことが、十字架を背負って従うことになるにちがいありません。

 


2019年3月24日

:「鷲のように翼を張る」 聖書:イザヤ書402731

 

 若者も倦み疲れるし、勇士もつまずき倒れるから、ましてや疲れている者や勢いを失っている者は、さらに疲れや勢いのなさが増して、元気を出し、立ち上がっていこうという思いも失せ、あきらめ、絶望的になりやすい。

 

 この絶望的な思いになっていたのが、50年近くの長い間、バビロン捕囚を経験していたイスラエルの人たちでした。

 

 彼らは、もう神は私たちを救ってくれない、私たちは神に見放され、私たちのバビロン捕囚からの解放の願いは聞いてもらえないと断言していました。

 

 預言者イザヤは、あきらめずに、すべてを支配し、導いておられる大いなる力なる主に望みを置きなさい。そうすれば必ず大いなる力が与えられる。考えられないような、ありえないと思われるような、不可能と思われるような、これまで想像できないような、新しい力が与えられ、枯れた骨に聖霊が注がれて生き返るようにして、愚かで、弱弱しかった弟子たちに聖霊が注がれて、見違えるように生まれ変わり、まさに鷲のように翼を広げて、力強く、生き生きと、雄々しく、喜びに満たされて、生きることができると励まします。

 

 鷲のように力強く、疲れを知らず、生き生きとして、輝いて生きている人の中に、愛に生きている人がいます。自らも被災し、大変な困難を抱えているにも関わらず、困っている他者のために心を砕いて、愛に生きている人は本当に元気ハツラツとしています。このような人の存在は、愛が私たちを輝かせることを教えています。

 

 神の愛に望みを置き、神に赦され、とことん愛されてる経験によって、慰められ、新たな力が与えられ、できなかったことができるようになり、愛が生まれ、小さく、貧しく、狭い愛が大きく、豊かに、広くなり、生き生きと元気になれると言われています。

 


  2019年3月17日

:「創造と贖いの神」 聖書:イザヤ書401226

 

 イザヤは、イスラエルの人たちがバビロン捕囚から解放され、祖国のエルサレムに戻り、自由になれるという慰めがやってくるという神の約束の預言が必ず実現するのはなぜか、それは、約束される神は創造主であり、大いなる絶対的な力ですべてを支配し、この世の権力者を初めすべてが神の前にはむなしくうつろなものであり、何の力もないからであると預言しています。

 

 創造主なる神を信ずることとは、どういうことなのか。その一つは、神は、被造物である私たち共にいてくださるといことであり、決して私たちは孤立しているのではなく、羊飼いのように神によって見守られ、養われ、導かれていて、どんな時も、どんなに厳しい、絶望的な状況に置かれても、それで終わりではなく、ダメになることもなく、まだ救いの道が残されている。全き平安が備えられている、何とかなる、というあきらめない気持ちが生まれることです。

 

 もう一つは、すべては支配し、絶大な力を持っておられる神が共におられるということは、主イエスの「私は世に勝利している。だから勇気を持ちなさい」という言葉がある通り、さまざまな困難や恐怖に恐れず、不正や差別に対して、勇気をもって立ち向う力が与えられることです。

 

 50年という長い年月を捕囚というみじめな、屈辱の日々を送った人々の中には、神を畏れる信仰をなくし、生きているのなら、どんなに過酷な運命であっても、負けずに、より良く、豊かに、尊く生きていこうという知恵を失っている人もいたに違いありません。

 

 イザヤが神を創造者であると固く信じて、語っているのは、イザヤ自身が圧倒的な神に出会い、無にされた経験があったから。

 

 私たちがイザヤのような経験をするためには、新たに造り変えてくださる創造主なる神を固く信じ、つながっていくしかありません。

 


2019年3月10日

:「神の慰め」 聖書:イザヤ書40111

 

 預言者イザヤが、良い知らせを伝える者に向かって、「高い山に登り、力を振い、恐れずに、声をあげよ」という呼びかけをしているのは、恐れずに声をあげ、伝えられなければならないほどのすごく大事な「良い知らせである」という思いが込められています。

 

 その良い知らせに値打ちがあるのは、なぜかというと、それは、慰めを与えるから、その慰めを与える方が神であるからと言っています。

 

 神の慰めとなる良い知らせとは何かというと、それは、紀元前587年から続いていた「バビロン捕囚」から解放され、自由になり、50年ぶりにイスラエルの人たちが祖国のエルサレムに戻れるという知らせでした。

 

 イザヤは、50年という長い、過酷な、本当につらく、絶望的な日々を過ごしてきた。これでイスラエルの人たちが犯した罪は償われた。神は贖い、赦し、解放し、帰還させるという神の約束を告げます。

 

 イザヤはいつか廃れ、滅びる運命にあるこの世にある存在や力と違って、神は永遠に生きておられ、大いなる力と羊飼いのような愛をもって私たちを支え、支配しておられる方であるから、神の約束は必ず実現する。必ず慰められる。希望を持ちなさいと励まします。

 

 この知らせを聞いた、バビロンに捕囚されていた人たちの中には、あきらめや絶望的な思いを振り捨てて、信じて、本来いるべき場所で、本来の自分を取り戻して、生きることができると確信して、喜んで、慰められ、帰還した人も多くいたに違いありません。

 

 イザヤが、神からこの良い知らせを聞いて、確信をもって伝えられているのは、彼自身が生ける神に出会い、こなごなに打ち砕かれ、罪が贖われ、絶望な思いから解放され、新たにされ、再度預言者として立ち上がる経験をしていたからかもしれません。

 


 

2019年3月3日

  題:「キリストがいる教会」 聖書:エフェソ書11523

 

 獄中の身にありながら、エフェソ教会の人々のことを気にかけ、祈っているパウロの思いには切実なものがあった。

 

 パウロは、彼が開拓伝道で救いに導き、作り上げたエフェソ教会の人々の信仰や愛が素晴らしいことを感謝しつつも、もう一つ大事なことが欠けていることを心配して、足りないところが満たされるようにと祈っています。

 

 その欠けている大事なこととは何であったのかというと、それは、希望でした。つまり彼らは自信を無くし、迷い、絶望的な思いに満たされて、希望を失っていたのでした。それを知ったパウロが切実な思いでもって、希望が与えられるように祈っているのでした。

 

 エフェソの人たちは与えられている使命、神の計画の中で進められている救いのわざに参与せられ、遣わされている責任をしっかりと果たすことができない、うまくいかない、失敗するのではないかという恐れに捕らわれていた。

 

 パウロは、神の召しに希望があるのではないか。あなた方は神に招かれ、選ばれて、宣教の使命に関わっているのではないか。神はあなた方に豊かな輝かしい恵みを与えると約束されている。そこに希望かあるのではないか。神は絶大な力をもって働きかけてくださっているから、必ずその約束は実現される。そこに希望があるのではないかと訴えています。

 

 彼らは、あまりにも厳しい現実に直面させられているので、パウロの訴えを信じ、悟ることができないでいる。そのためにパウロは、聖霊によって、心の目が開かれて悟れるようにと祈っています。

 

 パウロが確信と熱意で祈ることができたのは、教会にはキリストがいるから。復活されて、絶大な神の力を持ち、愛のキリストが必ず働きかけ、悟ることができるようにするから、という信仰でした。

 


2019年2月24日

:「信仰の真髄」 聖書:ルカ福音書7110

 

 主イエスから「これほどの信仰を見たことがない」と感心された人が、聖書に通じ、長い信仰生活をしているユダヤ人の長老たちではなく、ちゃんとした信生活仰がなかったと思われる異邦人の百人隊長であったことに不思議さと驚きを感じ、自分のような者でも主イエスに関心される信仰に生きる可能性の希望を感じます。

 

 主イエスが百人隊長に感心した言動とはどんなことであったのかというと、それは、自分のことだけではなく、他者の為に親身になって心を砕き、行動するとりなしの生き方という信仰の真髄があったということです。

 

 もう一つは、神の恵みを受けるのにふさわしいからという思いで、癒しを求めるとりなしの働きをしたユダヤ人の長老たちと違って、百人隊長は、自分が神の恵みを求めることはふさわしくないが、そのようなふさわしくない者にも恵みを注いでくださるという謙虚な思いである信仰の真髄を主イエスは高く評価されたからです。

 

 もう一つは、主イエスの言葉には、神の権威があり、「清くなれ」と言われれば、「清くなる」、「起き上がれ」と言えば、「起き上がる」ということが実際に実現できる神の権威をもっておられるという信頼を百人隊長は持っていたからです。

 

 信仰生活がほとんどなかった思われる百人隊長がその信仰を褒められるということは、私たちに希望を与えるとともに、なんでこうなるのかと不思議にさせられます。

 

 教えられることは、百人隊長の信仰は、理性を超えていて、神が一方的に選び、恵み、聖霊の働きかけがあったからであり、そのために新しく変えられて、他者の為に生き、謙虚になり、イエスの権威を認めるという信仰の真髄に生きることができたからであり、与えられたものであるから、私たちにも希望があるということです。

 


 

2019年2月17日

  題:「待ち望む人の幸い」 聖書:イザヤ書301526

 

 幸いを与える様々なことがありますが、本日の箇所において教えていることは、待ち望む人が幸いであるということです。

 

 血液のガンである白血病になり、水泳競技から離れなければならなくなった池江璃花子さんが、「耐えられない試練はないし、乗り越えられない壁はない、また必ず水泳選手として戻ってくる」と言うのを聞いて、待ち望めることはどんなに幸いなことかと思います。

 

 預言者イザヤがここで、待ち望んで幸いとなるのは、主を待ち望むことによって、つまり、人間でもこの世の権力でもなく、そうではなく、主なる神を待ち望むことによってであると伝えています。

 

 主なる神を待ち望むことによって幸いとなるのはどうしてか、それは、まず主なる神は私たちに恵みを与えようとしている方であるから。つまり裁きではなく、呪いでもなく、悪いものでもなく、そうではなく、より良いものを、いのちを、安心を、生きていく勇気を与えようとしているから、だから幸いであるというのです。

 

 二つ目は、主なる神は、ご自分を信頼する私たちを期待し、待ち望み、実際に待ち望む私たちを憐れんで、つまり、私たちが待ち望んでいる気持ちや思いに寄り添って、ともに悲しみ、ともに苦しみながら、私たちが待ち望んでいることを叶えてあげようとして、さまざまな困難があっても、それに立ち向かい、立ち上がり、行動し、働きかけるという約束をしている方であるから、その約束を必ず実現できる神であるから、すべてを正義によって支配している神であるから、だから幸いであるというのです。

 

 このイザヤの慰めに満ちた言葉を聞いて、神の約束の言葉に従わずに、挫折し、絶望的な状況に置かれているイスラエルの人たちはどんなに癒され、励まされ、勇気づけられたことか、新たになって、神を待ち望む思いを強めることができたのではないか。

 


 

2019年2月10日

   題:「キリストが与える自由」 聖書:ガラテヤ書4215:1

 

 言論の自由や信教の自由などさまざまな自由が憲法などによって与えられていますが、心の自由はキリストによって与えられているから、奴隷のくびきに繋がらず、不安や恐れから解放されて、固く立って、心の自由をもって生きるように、と勧められています。

 

 心の自由の一つは、他人や事柄にとらわれて、不安になったり、恐れずに、それらから解放されて、ただ生きていることが楽しい、喜んで生きる、感謝しながら生きるという思いをもって、日々を過ごしていくことであると理解してよいと思います。

 

 心の自由はキリストが与えてくれるというメッセージには、私たち人間には、自分の心を支配してコントロールすることが難しいということが示されています。それは、パウロが善いことをしようと思うが実際にはできずに悪しいことをしてしまう自分を見て、嘆き、絶望しているように、です。

 

 キリストはどうして私たちに心の自由をあたえることができるのか。それは、私たちが神の恵みに生きることができるようにしてくださっているからです。つまり、楽しく、喜んで、感謝して生きることを難しくしている、能力や生きる環境などの違いや苦難よりも勝ち得て余りある恵み、違いや苦難などが全然気にならなくなるほどの、大きな楽しみと喜びそして感謝の思いを与える神の恵みがキリストによって実現しているからであると教えています。

 

 キリストが心の自由を与えている目的は何かというと、それは、ただ単に自由気ままに生きてよいということではなく、愛に生きるため、つまり人間は心の自由を得て、思いやりの心が芽生え、赦し、共に生きていく命が得られるから、愛に生きなさいと。

 

 心の自由に生きるために、私たちはただ神の恵みを素直になって、単純になって、謙虚になって受け入れ、信ずることです。

 


 

2019年2月3日

  題:「真ん中に出る勇気」 聖書:ルカ福音書66節~11

 

 手の萎えた人が主イエスの促しに従って、会堂の中で、人々の真ん中に出たことが示されています。憎しみと敵意を持ち、厳しい目で見ている律法学者たちがいるという恐れを感じる雰囲気の中で、また手が萎えた姿を見せることには恥ずかしさがあり、嫌に感じる状況を考えると、真ん中に出ることがどんなに難しいことであるか。

 

しかしこの人は、世の不正や矛盾に対して、抗議の声を上げている、何をも恐れない気概や勇気ある人々と同じようにふるまっていることに驚き、すごいと思います。

 

 この気概や勇気はどこから生まれたのか。それは、主イエスに背中を押されるようにして、つまり、主イエスの気概や勇気が乗り移って力を受け、愛ある主イエスに繋がっているという意識を感じ、支えられ、守られている確信から力を得て生まれたと言えます。

 

 主イエスは律法学者たちの反発や憎しみそして命を狙われる危険があることが分かっている中で、どうして手の萎えた人を真ん中に立たせようとしたのか。しかも、まだ手をいやす前に、手の萎えた状態の時に、勇気や気概が必要とされるふるまいを求められたのか。

 

 一つ言えることは、手の萎えたことが差別され、悲しみや苦しみをもたらす状況を憂い、それに抗議し、それは間違っていることを訴え、そして人間は見える事柄に弱さなどのさまざまな違いがあっても、それによって尊厳さが失われるものではないし、皆あるがままで神に愛され、受け入れられている、かけがえのない存在であるという救いを示し、見失われている救いを実現する思いからです。

 

 私たちが自分自身ではあるがままの自分を受け入れることができず、肯定できず、愛することができなくても、神に受け入れられ、肯定され、愛されている存在であるという救いをそのままを受け入れ、肯定し、愛する勇気に生きることが真ん中に出ることです。

 


 

2019年1月27日

  題:「歴史の主なる神」 聖書:イザヤ書121節~2

 

 人間の願いや欲望のために崇められている万の神々と異なって、聖書の神は、神の方から一方的に人間の前に現れて、ご自分がどんな神であるかを自ら教え、啓示していることが示されています。

 

 聖書の神はどんな神であり、どんな思いや考えを持っているかについて、また人間を救う計画を実現するために選んだのがイスラエルであることについて知らされているのが預言者です。

 

 神に出会い、圧倒され、御心に気付かされている預言者の一人がイザヤであり、そのイザヤが本日の箇所において、イスラエルを占領するバビロニアは、一次的には栄えるが、長く続かずに、いつか必ず滅び、一方、イスラエルは回復し、救われ、平和を取り戻す時が来ることを預言しています。

 

この預言を通して、この救いを実現される方こそ、生きて働いておられる生ける神であり、まさに歴史の主なる方として私たちを支配し、導いておられる方であることを教えています。

 

 歴史の主なる神は、イスラエルが見捨てて、他の神々に信頼するという罪を犯しても、救うために懲らしめたり、厳しくすることはあるが、忍耐して、赦して、ご自分のところに戻ってくることを待ち続ける愛をもって支配している方であることが示されています。

 

 愛をもって私たちを支配している歴史の主なる神は、私たちすべての人たちと共にいて、私たちを見捨てず、孤独にせずに、最後には喜び、安心、希望という良きものを与えると教えられています。

 

 神の救いにあずかるために必要なことは、信仰です。ただ信ずることによって、私たちを愛をもって支配し、どんな時にあっても共にいて、救いと祝福をもたらし、思い煩いから解放し、様々な試練に乗り越えられる力を与え、いつもわたしたちの祈りを聞いてくださるという確信が私たちに与えられます。

 


 

2019年1月13日

 題:「戒めを超えるもの」  聖書:ルカ福音書61節~5

 

 戒めは私たちの日常生活に必要不可欠であり、信仰生活においてもさまざまな取り決めがあり、それによって信仰生活が全うできることになります。その戒めの一つが安息日の規定であり、本日の箇所に於いて、安息日にしてはならない約束ごとを破っているのではないかという非難がファリサイ派の人たちからイエスの弟子たちに向けられています。

 

 主イエスは、ダビデの出来事を示しながら、弟子たちの行為は間違っていないと反論されて、戒めを超える愛に生きることを諭されています。

 

 その当時、人々の信仰を指導し、導き、律法に精通し、愛の戒めがどんなに大切であるかをよく知っていたはずのファリサイ派の人たちが、戒めを絶対化し、弟子たちが飢え乾き、苦しんでいることに寄り添うことができず、冷たく非難し、思いやりのない言動をしてしまったのはなぜか。

 

 その理由の一つが彼らのイエスへの妬みと憎しみです。つまり、主イエスが世に出られ、福音を解き、病いをいやすことを通して、神からの使いだという評判がでて、人々の注目や尊敬がイエスに向けられることによって、ファリサイ派の人たちが妬み、憎しみの思いが高まる中で、イエスの言動が許せなくなったからであると。

 

 彼らがねたんだり、憎んだりしたのは、彼らの信仰に問題があり、本当に神の愛と憐れみを信じる信仰に生きるならば、妬みや憎しみから解放され、自分の他人と比べられない尊厳さに気付き、真の自信を得られるはずなのに、その信仰が欠けていると言えます。

 

 主イエスは戒めを超える愛に生きること、すなわち自分がしてもらいたいと思うことを、まず自分が他の人にしてあげるという愛に生きることが大切であることを示されています。

 


 

2019年1月6日

   題:「来る年を新たな思いで」聖書:ルカ福音書53339

 

 新年を迎えて、新たな思いへの意識が生まれる中で、信仰者としての思いを新たにすることの一つが、信ずることがどんなに大切であるかという思いや、信仰によって与えられる恵みがどんなにすばらしいかという思い、そして信ずることには力があるのだという思いを新たにすることではないか。

 

 このことは、主イエスが、私による救いの実現によって、新しい時が到来した今は、断食することよりも、婚礼に招かれた客のように、喜ぶ時であり、ぶとう酒が新しくなったのだから、入れる革袋を新しくするべきであるという言葉があるとおり、神の救いを受けるためには、何らかのふるまいや条件が必要であるという古い革袋は捨てて、神から無条件の救いの招きを素直になって、単純になって、ただ信じて、受け入れ、従っていくだけでよいという新しい革袋が必要だという約束によっても示されています。

 

 信ずることが大切であるのは、行いがなくても、罪深いものであっても、皆信ずることだけで、神の祝福を受け、主イエスにつながることができ、主イエスの命と人格、そして尊さを身に受け、主イエスのように生きることができるようになるということです。

 

 主イエスが自信に満ち、確信を持ち、堂々と、輝いて生きておられ、他者のために生きられ、人を変え、社会をよりよく変えられる尊い命と大いなる力をもっておられましたが、主イエスにつながり、主イエスの命と力を授けられて、自信のないものが変えられ、自信をもって生きていくこができ、自分のことしか考えられない自己中心な者が変えられ、他者のために生きられ、社会のさまざまな矛盾や不正を無くし、皆が安心して、希望を持って生きていける、より良い社会に変えていく働きに関わっていく力を得る恵みが、たた信ずることによって与えられるという思いを新たにすることです。

 


 

  2018年12月30日 

    説教題:「キリストが形づけられる」聖書:ガラテヤ書4820

 

 

 一年前であれ、一ケ月前であれ、過ぎた日を振り返る時、今の自分はどう変わっているのであろうか、つまり、成長し、進化しているのだろうか、それとも、なんの変化もないままなのだろうか、それとも以前に戻り、低下したり、悪くなったり、堕落してはいないであろうか、などのことが気になり、心配することがあります。

 

 パウロが、「あなたがたのことが心配です」と語っているはどうしてかというと、救われる前に逆戻りし、心が燃え、生き生きとして、喜びと感謝に溢れ、豊かな愛に生きていた信仰の姿が消えている人たちの存在があったからでした。

 

 心配されているあなた方というのは、パウロ達の開拓伝道によって、救われ、信仰に生きている、異邦人やユダヤ教から改宗したガラテヤ教会の人たちでした。

 

異邦人なる彼らは、目に見える偶像なる神々への信仰を捨て、迷信や風習そして祟りなどから解放されて、心からの喜びや安らぎ、そして希望を持ち、自由な心をもって生き生きて生きていた人々であり、ユダヤ教から改宗した人たちは、律法主義から解放されて、ただ信ずるだけで義とされるという福音によって救われて、自分らしく生きる、キリストが形づくられる信仰に生きていたのでした。

 

 そのような彼らが、逆戻りして、目に見える偶像なる神々の奴隷となり、神を信頼するよりも自分に信頼する信仰に落ち、キリストの形が崩れ、ゆがんだものになっていたということでしょうか。

 

 目に見える力に頼るか、それとも目に見えない力に頼るかどうか、また神にすべてをゆだねて信頼するか、それとも自分の力に頼るかどうかという信仰の戦いに負けている姿を見たパウロは、彼らへの愛を表す中で、再びキリストが形づくられることを願い、信仰の武具である、聖書を読むこと、祈ることを勧めているように思います。

 


 

 2018年12月23日

    説教題:「救い主の誕生」 聖書:マタイ福音書118節~25

 

 主イエスの誕生をお祝いするクリスマスが私たちに与える喜びが、普通ではなく、特別なものであり、普通では喜べない厳しい只中であるにも関わらず、喜べる大きな喜びである根拠は、「神が私たちと共にいること」が明白であり、確かであり、真実であることが示されたということにあります。

 

 「神が私たちと共におられる」ことによって生まれている大きな喜びの一つが、わたしたちは見えるこの世だけで生きているのではなく、見えない世界とのかかわりで生きており、見えない存在である大いなる神の力に支配されており、この世は何か不気味な力や運命に支配されているのではなく、愛と慈しみに富み、わたしたちが安心して、喜んで、希望をもって生きていけるように働いておられる神に守られて、支えられ、導かれていることが真理であり、確かなことであることが預言通りにお生まれになった救い主イエスによって示されたからです。

 

 二つ目は、わたしたちと共におられる生ける神は、不可能を可能にでき、安心できないと思われる只中で安心して生きられるように、喜べないと思われる只中で、喜べるようにし、望みが持てないと思われる只中で望みが持てるようにしてくださる、憐れみに富み、すべてを赦してくださる方であることが、死んだけれども三日目に復活したイエスによって明らかにされたからです。

 

三つ目はすべてを支配し、愛をもって導かれ、導いてくださる大いなる生ける神はすべての人と共にいてくださるということ、つまり、わたしたちは皆、誰一人もれなく、誰一人除外されることなく、どんなに罪深くあっても関係なく、すべての人と共にいてくださることが、みすぼらしい、貧しい、薄汚い飼い葉桶でお生まれになった救い主イエスによって真実であることが示されたからです。

 


 

 2018年12月9日

  題:「平和の王の到来」  聖書:イザヤ書11110

 

 待降節に於いて求められる心備えの一つが、救い主のイエスをどんな方として理解し、お迎えするのかというのがあります。その答えの一つが、「イエス・キリストは私たちの平和である」というパウロの言葉のように、平和を実現する方であるという理解です。

 

 平和の王としてやってこられたという信仰は、聖書にしるされている預言がイエスに於いて成就したという理解から来ていますし、その預言の一つが本日のイザヤ書11章であります。

 

この預言には、「狼が子羊と共に宿り、豹が子山羊と共に伏す。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ、幼子は蝮の巣に手を入れる」という表現で表されているような、本当に皆が穏やかで、安心して、自由に過ごすことができるという平和が実現することが示されています。

 

 この平和を実現するメシアは、ダビデの父であるエッサイの家系から生まれ、主の霊を注がれ、知識と勇気と敬虔さを身につけ、正義と真実をもってふるまい、弱い立場にある人に寄り添い、見守り、守っていく方であることが示されています。

 

 パウロが証しているように、キリストによって、敵意が取り除かれ、赦しに生き、共に生きて平和に生きる新しい人が世界中に出ているが、しかし、一方では、憎しみや対立が絶えず、争いや戦争やが国と国、人と人の間などのいたるところで起き、傷つき、悲しみ、命を奪われ、絶望的な状況にある人達が数多くいるし、弱い立場にある人達は特に悲惨さを経験しています。

 

 絶望的な中で、希望となることは、キリストの平和が多くの人に於いて実現しているし、私たちを真に支配し導いている存在は預言を成就する全能の力を持ち、愛に富み、いつも私たちに関心をもって見守り、支えている、生ける神であり、その神が時が来れば、必ず平和を実現するメシアを遣わすと約束していることです。

 


 

 2018年12月2日

    題:「主の恵への心備え」  聖書:ルカ福音書3120

 

 毎日であれ、一年に一回であり、自分の歩みを振り返り、反省し、修正していくことは、意義があります。つまり、間違ったところがあれば、正し、曲がったところがあれば、まっすぐにし、でこぼこがあれば、平らにして変えて、修正していくことは本当に私たちの人生にとって必要不可欠であり、豊かな人生になれるかどうかの決め手になると言っても過言ではありません。

 

 信仰が本物になれるかどうかの決め手になる振り返りが悔い改めることです。単なる懺悔ではなく、これからは立派な正しい人間になれるように頑張って生きていきますと反省することでもなく、そうではなく、真の悔い改めができるかどうかが試されます。

 

私たちが自分の生き方がどのように向いているかを点検し、本心に立ち返り、百八十度転換して、神の方に向いているかどうか、傲慢ではなく、謙虚になっているか、曲がらずに、ひがんだり卑下したりせず、まっすぐに、謙虚になり、神の愛にすべてをかけて生きていこうという悔い改めの思いがあるかどうかが必要です。

 

 この悔い改めを洗礼者ヨハネは、真に悔い改めさせ、新生させる大いなる力をもっておられる、聖霊に満たされている救い主イエスが登場してくる前に、荒野で、「その人を迎える心備えをしなさい。」と人々に厳しく激しく叫んでいます。

 

 ヨハネの叫びが激しく、厳しかった理由の一つは、悔い改める必要のない者は誰一人いない。自分は正しい人間であり、悔い改めを必要しないと思っている人が自分の愚かさに気付き、真に悔い改めることができるようにするためであり、悔い改めて、神の向きを変え、イスエを救い主として信ずることがあってこそ祝福される人になる。だからどうしても悔い改めが必要だし、その時は今であることを解ってほしいという思いやりと愛があるからかもしれません。

 


 

 2018年11月4日

     題:「生涯の日を数える知恵」   聖書:詩編90

 

 この詩人は、限りある私たちの人生を、「朝が来れば、花を咲かせ、夕べにはしおれ、枯れていきます。人生はため息のようであり、瞬く間に時は過ぎ、飛び去ります」と見事な表現でもって描き切っています。

 

 いつか必ず死がやってくる現実がはかなさや虚しさを感じさせる中、死を見ないで、ただ生きるだけを考えていこうと思う人や、死が来るのは運命だから、仕方がないとあきらめて過ごす人もいる中で、この詩人は死を見つめ、恐れずに、前向きになり、積極的になって、喜びと希望を抱き、悔いのないように生ようとしています。

 

 詩人は、このような素晴らしい生き方はどうして生まれているのか、それは、彼が生涯の日々を正しく数える知恵をもっていたからかもしれません。

 

その知恵とは何か、それは、永遠なる神とのかかわりの中で生き、肉体が滅んでも、霊なる体は、死んでも消えるのでもなく、何か恐ろしいところに落ちていくのでもなく、そうではなくて、そのままで受け入れられ、赦され、永遠の命を与えてくださる、憐れみと慈しみに富む永遠なる神のところに帰り、豊かな慰めと平安を得ることができると信じられる知恵でした。

 

 この詩人が永遠なる神のところに帰ることができ、永遠の命に生かされる恵みを自分も得られるという確信が生まれたのは、死を見つめることを通して、そこに神の裁きと愛があることに気付いたからでした。

 

この詩人は死は罪が罰せられていることであり、同時に愛されていることでもあることに気付き、生と死はすべて神の御手にあることを知らされ、罪を悔い改め、神の憐れみによって生かされて生きていることに気付く謙虚な心を持つ知恵があつたからでした。

 


 

  2018年10月21日

    題:「メシア預言」     聖書:イザヤ書8:239:6

 

 ユダヤ教から分かれ、生まれたキリスト教が、神から出てきている宗教であるという正当性や真実さの確かな根拠になり、ユダヤ教からの疑い、反発、攻撃に耐えて、乗り越えて、弟子たちが「イエスこそ救い主である」という宣教に希望と勇気を持ち、命がけで励んでいくことができた根拠と力の一つは、メシア預言がイエスによって成就したという確信であったと言えます。

 

 「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた」というメシア預言は、紀元前8世紀頃、南イスラエルのユダの国がアツシリアの国の脅威に脅かされ、人々が闇の中に置かれていた時、イザヤが預言したものであり、ユダの民に光をもたらし、救って下さる神になお望みをかけるように呼びかけられたものでした。

 

 イザヤのメシア預言は、彼の願いや理想からのものではなく、神はユダの民がくるしみ、悲しみ、人間としての尊厳を失っていることに無関心ではおれないし、ほおっても置けないと思い、強い関心を持ち、何とかしてあげたい、くるしみや絶望から解放して、救い、幸いを与えたいという熱き想いを持っておられる神の言葉でした。

 

 救い主としての特別な使命をもって人々に「神の国は近づいた。くいあらためよ」と宣べ伝え、カウセラー的な思いをもって弱い立場に置かれている人に寄り添い、敵意という中垣を取り除き、平和を実現されているイエスも、聖霊をとおして、さまざまな預言はご自分において実現しているという確証があたえられて、ご自分の救い主としての正当性や真実さを得ておられたのではないか。

 

 神の熱き想いの中で生まれているメシア預言によって、自然破壊や戦争の危機などによって、覆っている今日の闇の中にあっても、強い関心を持っておられる神は、必ず私たちの救いのために救い主を遣わされると私たちは確信でき、なお望みに生きられます。

 


 

  2018年10月14日

   題:「なお神を待ち望む」    聖書:イザヤ書8:523

 

 人生において価値があり、尊いのは、成功することであり、それが人生の勝利者になることであるという考えがあります。確かに失敗することは恥ずかしく、みじめなことですが、一方、競争に勝ち、一番になり、いろんな分野で頂上に上り、指導者になり、権力を握り、成功することに価値があり、尊いことであり、人生の勝利者であるという考えがあります。

 

 さまざまな分野で成功を収めている人たちのふがいなさや身勝手さそして醜さを見ると、成功することがはたして人生の勝利者であるといえるのか、言えないのではないか、真の勝利者はほかにあるのではないかと気づかされることがあります。

 

 聖書は、勝利者とは望みに生きることである。つまり、さまざまなことで失敗し、困難を抱え、絶望的な状況におかれても、それに負けずに、あきらめずに、望みに生きることこそが真の勝利者であると教えているように思います。

 

預言者イザヤが、ほかの国に攻められる危機にあつたユダの国の王アハズに、アツシリヤの国に援助を頼まず、アッシリヤの神々に拝まずに、ただヤーウエなる神に信頼すれば、守られるからと預言しても、その預言が失敗するというみじめな結果になり、預言者としての自信をなくすような絶望的な危機に遭遇します。

 

しかし、イザヤは絶望的な状況におかれても、あきらめずに、それでもなお、望みに生きています。そこにはみじめな敗北者の姿はなく、毅然としていて、晴かな表情をしている、真に勝利している姿が見えてきます。

 イザヤが望みに生きることができたのは、すべてを支配している、真に恐れるべき方であり、最後は救いと命そして平安などのよきものを与える生ける神が自分と共にいる確信があったからでした。


 

 2018年10月7日

   題:「約束による相続人」聖書:ガラテヤ書3:2129

 

 神の相続は約束によってなされる。つまり、神が一方的に、自由に、主体的になり、相続を受ける私たち人間の側は何の要求もできずに、ただハイ、わかりましたと言って受けとるという約束の形で、神が与える豊かな恵みと祝福の相続は実現していきます。

 

 神の約束はどんな形で実現するのかというと、それは信仰による、キリストを信ずる信仰によるといわれています。なぜ信仰によるのか、それは、行いによっては神に義とされず、相続を受けるのにふさわしくないからであり、神の相続を受けるのにふさわしいものになる義となるためには、信ずることが必要であるからです。

 

 ただ信ずることによって、神の相続人になれる。つまり、神の子、になり、キリストを着るという神の豊かな財産、恵み、祝福を受けられるし、しかも得られる財産が想像を絶する豊かで、偉大なものであるから、なんと驚くべきことであり、喜ばしいことであり、幸いであることか思います。まさにたかが信仰ですが、されど信仰だということかもしれません。

 

 神の子になり、キリストを着るという新しい人間に創造されることは、具体的にどんな存在になるのか、それは、内村鑑三が「後世への最大遺物」という書物で表しているところの、高尚な生涯を生きる人であり、つまりこの世は不気味な恐ろしい力ではなく、生ける神の愛の力に支配されていると信じ、希望と喜びを忘れず、自分の尊厳さをしっかりと意識して生きる人になれるということです。

 

 信仰の父アブラハムのように素直に、単純に、幼子のようになり、自分を捨てて信ずる信仰に生きることが難しいのは、自分の悪を認めて謝る心が持てず、罪を認めても、なお自分の力で正しい人間になろうと思い、他者の犠牲の上で生きることができず、赦しを必要とする者であると認める心がないからかもしれません。

 


 

  2018年9月30日

   題:「益なくも信ずるヨブ」    聖書:ヨブ記1:122

 

 神を畏れる、ヨブの無垢な正しい信仰が鏡となり、私たちの信仰のふがいなさや貧しさがはっきりと気づかされるところがあります。

 

 ヨブの素晴らしい信仰にいちゃもんをつけたくなる人もいるのかもしれません。つまり、素晴らしい信仰を疑い、ヨブの信仰はただで、益もなく、損得ぬきで、報酬を念頭に置かないで信じているのだろうか、そうではないのではないか、何かの益があるから、得するから信じているのではないかと疑う人もいるし、そのような人がサタンとして登場しています。

 

 サタンは神に、ヨブは何か災いを被るなら、神を呪い、神から離れていくと思うから、厳しい試練を与えてみたらどうかと聞きます。

 

 家畜などの財産や子供の命が奪われる悲惨な状態に置かれた時、ヨブは変わらず、「主が与え、主は奪う」と言って、神をほめたたえ、罪を犯すことはなく、自分自身も病に罹り、妻からも「神を呪い、死んだほうがよい」と言われるような、大変なひどい状態になっても、「神から幸いをいただいたのだから、不幸もいただこう」と言って、神を呪うことはしないで、無垢な正しい信仰を守っています。

 

 ヨブの素晴らしい信仰は私たちにとって鏡であると共に、憧れになり、目標になり、この信仰はどうして生まれるのかという課題が見えてきて、その答えが、友人たちとの対話を通して示されていると考えることができます。

 

 答えの一つは、悪いことをしたから罰せられるのは当然だと思ってあきらめることではないこと、二つ目は神は愛する者に試練を与えると思って、忍耐することでもないこと、三つ目は偉大な神によって私たちは支配されていることを理解して納得することでもないことであり、そうではなくて、ヨブが生ける神に出会い、圧倒され、身をもって生ける神を畏れることを経験したからでした。

 


 

 2018年9月23日   題:「神からの期待」聖書:イザヤ書5:17

 

 私たちは、誰かに期待され、誰かを期待するという中で、生きていて、期待に応えることができたり、できなかったりして、喜んだり悲しんだり、がっかりしたり失望したり、怒ったりほめたたえたりしています。

 

 本日の箇所は神からの期待に応えられなかったイスラエルが神から厳しい扱いを受けることが語られています。つまり、良いブドウを実らせることを期待される中で、神に愛されたイスラエルが期待外れとなり、神から厳しい扱い受けることが記されています。

 

 イスラエルが厳しく扱われたことに神の心配と憐れみとして受け止められて、よいブドウを実らせていかなければならないという悔い改めができることができるかどうかが問われます。

 

 イスラエルが神の期待に応えられなかった具体的なことは何であったのかというと、それは、公平さと正義でありました。

 

神が期待する公平さとは、見えるさまざまな能力などの違いによって尊さが決められるのではなく、皆一人一人かけがえのないものとして扱われることであるのに、イスラエルの人々はいろんな違いを軽蔑や差別をすることとして受け止める間違いがあつたからです。

 

神が期待する正義とは、力ではなく愛であり、支配し、仕えられるひとではなく仕えることであり、何かすごいことができることではなく心の豊かさであるのに、力を求め、支配することを求め、行いによって正しさを求めて、人を抑圧し、威張る生き方するという間違いがあったからです。

 

 神が期待する中で最大なことは、神に期待することであると言えます。つまり、すべてを支配し、導き、幸いと思えるのに必要なことはすべて与えてくださる全能の生ける神を信じ、み言葉に学び、賛美し、救いを待ち望み、救ってくださいと祈ることです。

 


 

 2018年9月16日

   題:「審判と栄光」聖書:イザヤ書3:116 4:26

 

 イスラエルに対する審判と栄光をイザヤが預言したのは、名君ウジヤ王が支配していた紀元前8世紀頃、イスラエルが繁栄している時でした。

 

預言者イザヤはイスラエルが繁栄していた時、将来必ず起きるという確信を抱いて、国が混乱し、崩壊していくことを語り、それを神の裁きとしてどうして語ることができたのか。

 

それは、イスラエルの人たちがさまざまに恵まれていることに神の憐れみを忘れ、恵まれていることを当然のこととして受け止めることによって、傲慢になり、共に生きることができなくなり、御心である、弱い立場にある人を大事にすることもなくなり、社会が混乱し、崩壊して行くことが必然であることを予知できたからでした。

 

イザヤが、イスラエルが裁かれ、指導者の不在などが起きて、国が崩壊することを確信をもって預言できたのは、神を畏れず、弱い立場にある人を大事にするという御心を行うことをしない罪を神は見逃さずに、裁かれると確信していたからでした。

 

イザヤが人から憎まれる神の審判を語ることができたのは、その裁きに救い、清め、よりよくしていきたいという神の憐れみと愛を見出すことができたからであり、そのために悔い改めを求めようとしたからでした。

 

 神を神としてあがめ、すべてを支配し導き、すべての良きものを与える全能の神として信じ、自分は神の憐れみがなければ生きていくことができない弱く、罪深い人間でることを認め、悔い改めるならば、神の裁きから逃れられ、それだけではなく、身を低くする謙遜さにこそ癒しをもたらす神の言葉が生き生きと働き、また神の業を行うために選ばれ、用いられ、そのために必要なたまものが与えられるという祝福が得られる。だから悔い改めなさいと勧めています。

 


 

2018年9月9日

 題:「キリストの死を無駄にしない」     聖書:ガラテヤ書2:153:21

 

 パウロの「神の恵みを無にしない。キリストの死を無意味にしない」という力強く、確信を持つ言葉にどんな思いが込められているのでしょぅか。それは、キリストの死にこそ救いがあり、生きる力があり、平安があり、希望があり、豊かさがあるという思いが込められ、素晴らしい新しい光景が見えてきた驚きを語っています。

 

 一つは、罪人がただ信ずることによって義とされ、神からみすてられることなく、罰せられることなく、神の祝福を得るという驚くべき、とてつもなく大きな恵みが得られる根拠がキリストの死であるから、パウロはキリストの死を無駄にしないときっぱりと言っています

 

 二つ目は、聖なる方であり、尊いかたであり、義なる方であるキリストが俗なる、卑しい、罪深い自分に宿り、生きて働くことによって、自分が変えられ、キリストのかおりや輝き、豊かさの中で生きることができ、自分から自由になり、キリストの愛と憐れみの支配の中で生きることができるという大いなる恵みの根拠はキリストの死にあるから、キリストの死を無駄にしてはならないと。

 

 三つ目はどんな人間でも自分を愛し、自分のために死んでくださっていると確信できるという豊かな恵みの根拠がキリストの死であるから、キリストの死は無駄にできないとはっきりと語ります。

 

 パウロが「キリストの死を無駄にしてはならない」と指摘している相手は、信ずることだけでは義とされない、行いがないと救われない、と思い、ユダヤ人も異邦人の区別もなく、汚れたものは何一つない、皆清くされているという救いに固く立てず、また以前として古いままの生き方から解放されずに、思い煩い、自分に捕らわれて、悲しげに、望みが持てずに生き、自分のためにも命を犠牲にしてくださっていることを信ずることができない人です。

 


 

2018年9月2日

:「弟子となった漁師たち」聖書:ルカ福音書5111

 

 主イエスが最初に弟子として招いたのは、漁師たちでした。なぜ漁師だったのか、不思議な気がします。

 

学問もなく、教養もあると思えない、その当時、身分・地位も低く、尊敬の対象にもなれず、というより軽んじられていた人たちであった漁師たちをイエスはなぜ選んだのかと驚きます。

 

 考えられる理由は、選びは一方的なものであり、恵みによるものであり、人間には何の条件もないということであり、もっと言えば自信や誇りは不要であり、逆に自分には何もなく、弱さや愚かさに気づくことが必要であるということかもしれません。

 

 もう一つ不思議な事は、弟子たちが自分の親や仕事そして自分の夢などをすべて捨てて従っていったということです。「従ってきなさい。人間をとる漁師になりなさい」というイエスの呼びかけに、よくもすべてを捨てて従っていくことができたことに驚きます。

 

すべてを捨てられたのは、弟子たちが心配や恐れを克服し、乗り越えられるところの安心できること、勇気がもてること、希望が持てたということがあったに違いありません。

 

 イエスは弟子たちにどのようにして、安心、勇気、希望をもたらすことができたのか、弟子たちはどのようにしてそれらを身に着けることができたのか。それは、イエスの大いなる力、イエスを通して大量の魚が捕れる大いなる力を弟子たちに示されたからでした。

 

 弟子たちは大いなる力を発揮されたイエスを見て、イエスには神が共におられるということを感じ、圧倒され、自分の罪深さ、無力に気づかされる中、イエスの大きな愛に生かされ支えられることに気づき、この人に従っていっても、大丈夫だ、自分のような無力な者でも弟子になれるし、大きな恵みも得られるという確信が生まれ、安心、希望、勇気が生まれ、従っていく力が与えられたのでした。

 


 

2018年8月26日

:「主なる神を試さない」聖書:ルカ福音書4113

 

 三回目の誘惑は神の言葉によって神から引き離そうという魂胆でした。ある時、イエスは、神殿の屋根の橋に立たされて、「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ」という誘いを受けます。

 

 この誘いは、神の子であるなら、飛び降りても死なないように守ってくださるはずであるから、飛び降りても大丈夫だとう思いが込められていて、神に信頼せずに、奇跡を行わせることです。つまり、何の意味もなく、必要のないことでもあり、何の役にも立たないことをただ神の支えと愛を確かめたい、そのしるしを見たいという無謀な、身勝手な思いで、ただ神を利用するだけの、頼ることとは正反対の、不信仰の何物でもないことである。

 

 この誘いが、「神の子であるあなたを、必ず守ってあげる」という神の言葉を使って正当化する、強烈なものになります。

 

イエスは、この誘いを神に背かせるものであると見抜いて、神を試してはならない、神にすべてをゆだねなさいと諭されます。

 

 イエスは、この誘いは、神の言葉を曲げて使っているし、神の言葉の恵みの力は、実際にさまざまな苦難のただ中で悲しみ、苦しみ、絶望している時に、発揮され、慰め、癒し、生きる勇気を与える救いをもたらすものであることを教えています。

 

 神を試すことをするのは、生きる根拠がわからず、自分の尊厳さや生きる意味を見出せない、生かされて生きている存在であり、必要とされ、何らかの役目を果たすために生きているということが見えていない、神の恵みと愛が解らない状態にあることだと言えます。

 

 イエスは、皆、神の恵みと愛のなかで守られているし、いろいろと配慮されているから、それを信じてゆだねなさい。見えていない神の支えを見えるまで探し求めなさい。必ず見つかるはずだから、信じて、試さないで、ゆだねて、探し求めなさい、と呼びかけます。

 


 

 2018年8月19日

  題:「主なる神のみを拝む」聖書:ルカ福音書4113

 

 一回目の試みは生きる根拠に関することでありましたが、二回目は本能に関することで、私たち人間が一番心にかけ、魅力を感じ、心を動かされ、心揺さぶられ、強烈な誘惑になるところです。

 

 本能とは、目立ちたがりたいという願いで、一番になりたい、誰よりも優秀でありたい、高い地位を得て、人を支配し、先頭に立って人に命令し、人に仕えられたいという欲求、最大の欲求です。

 

 悪魔はイエスに権力と繁栄を見せ、これを与えようと誘い、神から引き離そうとします。イエスは悪魔の魂胆を見抜いて拒否します。

 

 イエスは、権威と繁栄を求めることは、神に背を向けることになるし、他者を引きずり落とそうとしたりする心の醜さや、他者を憎んだり、軽蔑したりする心の貧しさが出て、自分や他人に捕らわれる不自由さが生まれ、愛や自由そして平安が得られなくなることを知っておられたので、悪魔の誘いに負けることはありませんでした。

 

 イエスが拒否できたのは、神に仕え、拝む生活を通して、愛と自由そして平安は豊かに与えられていたからでした。

 

 イエスは、弟子たちが、権威や高い地位を得て、人に仕えられるような偉大さを求めていることに気づかれて、偉大さを求める本能自体は悪くないし、必要なことであるが、大事なことは、偉大になりたい本能を仕えることを通して実現しなさいと言われます

 

 イエスは、学歴や資格などの権威や繁栄はなかったが、まさに仕えることを通して、神に仕え、人間に仕えることをによって、誰よりも多くの人々に感動と感化と与えて、誉れを受けておられます。

 

 喜んで人に仕えるためには自分を低くし、謙虚になり、自分をむなしくし、自分を捨てる人格が必要になり、こうなることは本当に難しいが、神に仕えることによって、自分を捨てられる人格が造られて他者に仕えることができる。だから神だけを拝みなさいと。

 


 

2018年8月12日

 題:「パンのみでは生きられない」聖書:ルカ福音書4113

 

「人はパンのみでは生きられない」という言葉は、一般的には、生きるためには物質的なことだけではなくて、心や精神も大切なのだという理解がされていますが、主イエスはどんな思いや考えでこの言葉を引用されているのでしょうか。

 

 主イエスがこの言葉を引用されたのは、荒野において悪魔の誘惑を受けている時でした。

 

悪魔とは、さまざまな苦難の中で、神を呪ったり、神に不信を抱いたり、神を嫌っている人を見るとすごく喜ぶ存在で、いつも神から引き離そうとしていろんなたくらみをしています。

 

主イエスが悪魔の誘惑を受けられたのは、40日間荒野で過ごし、空腹という苦難の中にあった時でした。

 

 悪魔は主イエスに「「神の子なら、その石にパンになるように命じたらどうだ」と呼びかけます。主イエスはこの呼びかけに、神に頼らずに、自分の力で奇跡を起こしたらどうだと言って、神から引き離そうとする悪魔の魂胆を見抜かれて、神だけを拝み、神にすべてをゆだねるという神への無限の信頼を示されて、主イエスが神の子、救い主であることの証明をされます。

 

 主イエスが、悪魔の誘惑に対して、神の言葉でもって対応しておられるのは、神から引き離そうとする試練に敗北しないためには、神の言葉によって養われていなければならないということが示されています。

 

 なぜ神の言葉に養われていなければならないのか、それは神の言葉は人間の生きる根拠であり、小さな無力な愚かな私たちを赦し、愛し、見守り、顧みてくださる慈しみの教えであり、真にいきがいを見出し、他では得られない大いなる喜びを得ることができる知恵と力が得られる教えであるからです。

 


 

2018年8月5日

:「平和と命の主」聖書:マタイ福音書59

 

 平和や命の尊さそして戦争の悲惨さをより深く、より強く思わさせる8月に入り、主イエスの「平和を実現するものは幸いである」という言葉が私たちの心に強く迫ってきます。

 

 主イエスは幸いなのは単に平和を好み、喜ぶ者ではなく、平和を実現する者が幸いであると呼びかけています。

 

 幸いなのは、平和は有難く、人間が人間らしく、安心して、希望や夢をもって、お互いが共に協力して生きられる必要不可欠な尊いものであり、また神が人類を救う神の国を実現する働きに参与し、神の労働者になるという光栄あるものであるからと言っています。

 

 平和を実現する働き手になる人は、どんな人なのかというと、それは、相手を大切に思う心、赦し愛する心、相手の良さを見ることに長ける心、さまざまな違いにある対立や憎しみそして軽蔑を乗り越えて、皆一人の人間である、かけがえなさを持った人間であると理解する心などを持つ人であると言える。

 

 自己中心的であり、愛の心の貧しい私たちであっても、敵意を取り除き、差別や偏見を受けている弱い立場に置かれている人に寄り添い、共に生き、敵を愛する心と命にあふれる、平和と命の主であるキリストを信じることによって、キリストの命と力を身につけられて、その働きに参与できる。だから幸いであると言われます。

 

 平和を実現することがどんなに困難であるか、それは戦争の絶えない歴史やこれまで戦争に加担してきている教会の姿を見ればわかるし、戦争が起きる危機がある今、平和の実現に希望が持てない。

 

 時が来れば、歴史の主であり、平和と命の主である生ける神が、国が国に向かって剣を上げずに、戦うことをしない平和な世界を実現する預言があり、世の中には実際にキリストによる一致や生ける神の平和の働きがみられる。ここに希望があり、幸いがある。

 


 

 2018年7月29日 

   題:「権威と力の主」 聖書:ルカ福音書431節~44

 

 主イエスは、神の子として、救い主として、神の国の福音を宣べ伝える特別な使命を自覚しながら、人々に神の教えを語り、さまざまな業を行いました。

 

 人々は、主イエスの言葉に非常に驚きました。つまり、その言葉に感動し、圧倒され、心が強く動かされるものを感じ、これまで経験したことのない、律法学者たちにも見られない、神が共におられて働いている権威と力を感じたのでした。

 

 権威と力はどんな形で表されているのかというと、それは、汚れた悪霊に取りつかれた人に向かって、「この人から出ていけ」という言葉をかけて、その人を苦しめ、恐れを抱かせ、絶望させていた恐ろしい悪霊を追い出し、解放し、自由にし、平安と希望を取り戻させて、人間らしく自分らしく生きていくことができる命を与えるにことによってです。

 

 もう一つは、病にかかり、いろいろと世話を受け、仕えられ、助けられていた人が癒されて、癒される喜びに浸っているだけではなく、そこから立ち上がって、今度は人を助け、人に仕え、人を助ける人に新しく作り変えさせることができることによってです。

 

 神の権威と力を与えられていた主イエスは神の国が近づいていると宣べ伝えています。つまり、この世は悪魔のような不気味な力に支配されているのではなく、支配しているのは生ける神である、愛と平和をもたらす、真の勝利者である、生ける全能の神に支配されている。だから心配になり、恐たり、絶望することはない。安心して、希望をもつて生きなさいと呼びかけています。

 

絶えず神と対話し、祈るイエスの姿は、神を信じて祈ること。そうすれば、神が共におられて、新しい人間に作り変えられていく力が与えられることを教えています。

 


 

 2018年7月22日  

   題:「まことの礼拝」 聖書:イザヤ書111節~20

 

 イスラエルの人たちは、預言者イザヤからの「神に耳を傾けていない、真に神に聞くように」という非難に対して、自分たちは、捧げものもちゃんと行っているし、決められているさまざまな集会・祭りごともしっかりと守っているし、日々の祈りも欠かさずにして、礼拝をささげているという反論をしています。

 

 彼らの反論に対して、イザヤは、あなた方の礼拝はまことの礼拝ではなく、偽りの礼拝であると厳しく指摘しています。つまり、彼らの礼拝はうわべだけの、心のこもらない、心から悔い改めのないものであり、自分たちの行いをただ神に聞くことの手段として考えまた、行いによって神の恵みと赦しが得られると誇っているが、それは間違っている。だから神は喜ばないし、忌み嫌い、集会を憎み、祈りを聞かない。それらは御心にかなっていないと指摘します。

 

 御心に叶うためには、悔い改めて、悪を行うことをやめなければならないし、祈りを自分のためだけではなく、他者のためのとりなしの祈りでなければならないし、特に弱い立場にある人に寄り添い、共に生きていくことが必要になる。

 

 悔い改めのない捧げものや集会及び祈りは、偽りの礼拝であり、心からの思いがなければ、神は喜ばれないし、自分だけではなく、他者のことを考える、特に弱い立場に置かれている人たちとのかかわりのある礼拝でなければ、まことの礼拝にはならないと。

 

 イザヤは彼らの礼拝はまことの礼拝になっていない。だから神の裁きを受けて、国は崩壊寸前になっている。しかし、イザヤは、この裁きは最後通告ではない。まだ望みがある。本当に悔い改めて、真に神に聞くならば、不可能なことを可能に、黒を真っ白に、呪いを祝福に変えられる、全能の生ける神が働いて、囚われの状態から開放して、国の復興を成し遂げてくださると約束しています。

 


 

  2018年7月15日

 題:「神に耳を傾ける」 聖書:イザヤ書11節~10

 

 人と人との関係において、円滑な関係を築くためには聞くことが必要不可欠であり、またそれ以上に神と人の関係においてはより大切であり、聞くことができずに破綻する深刻さは、神と人の関係においては、より深刻になり、救いか裁きか、生か死か、祝福か呪いかが決まってくると言っても過言ではありません。

 

紀元前700年前後に活動した預言者イザヤが、イスラエルの民に、「耳を傾けて、神に聞き従うように」としつこく語り掛けています。

 

イスラエルの民は自分たちを神が自分の子として選び、やさしくし、深く愛し、守り続けていたのに、恩を仇に返すようなことをして、主人がだれであるかをしっかりわかって従っている家畜よりも劣って、父である神に背き、侮り、聞き従わずに、偶像なる神々に心を寄せていたのでした。

 

神はイスラエルを悔い改めさせるためにさまざまな懲らしめをしてきましたが、何の効果もなく、彼らは、エルサレムの町だけ残り国が崩壊寸前になっていても、そんなひどい状態になっても、かたくなな状態であり、神に縛られずに自由を得たい、偶像なる神々に頼んで、自分たちの願いや欲望を満たしたいという強い思いがあり、聞き従うことをしませんでした。

 

 神がしつこく聞き従うように言ったのは、神に縛られていてこそ真の自由が得られるし、命を初め良きものはすべて神から生まれ、神が与えてくれるものであることを知ってほしかったし、全滅させずに、わずかな者だけを残したのは、神はイスラエルを通して救いを実現していくこと、神の国を実現していくためには、彼らを選び、用い、必要としていたからでありました。

 

神は、イザヤを通して、神の願いと思いを信じて、悔い改めて、耳を傾けてほしい、それを待っていると強く語ります。

 


 

2018年7月1日

:「神の知恵なるキリスト」 聖書:コリント書一118節~25

 

 教会の使命の一つが宣教です。福音を宣べ伝える宣教が使命の一つです。宣教の使命は、行いや業によってではなく、信ずることによって人を救うためであり、信ずるためには、聞くことが必要であり、聞くためには、福音を宣べ伝える人が必要であるからです。

 

 救いを得るために信ずることが必要とされたのは、行いや業によっては私たちは神に義とされ、祝福されることができないからであり、そのため神は人間にただ信頼し、信ずることを求めたからであり、その救いを自らの手によって、つまりイエスの十字架と復活によって実現されていて、実現されている神の救いを受け入れ、信ずるだけで、人間において実現していくことになるからです。

 

 奇跡などのしるしを通して神の救いを得ようとするユダヤ人や理性や知恵を働かせて神に辿り着こうとするギリシャ人にとって神の知恵や力が愚かに思えたのは、行いがなくて、ただ信ずることによって救いを得ようとするからであり、十字架につけられたキリストが神の知恵と力であると宣べ伝える事柄についてでもそうでした。

 

 彼らが、十字架につけられたキリストは神の力と知恵であることが理解できずに愚かに思えたのは、十字架に愛があることを、神の豊かな、無上の愛があることがわからなかったからであり、他者を赦し、他者と生きていくために、受けた傷の悲しみと戦い、怒らずに忍耐し、罵られても罵らず、言えるべき文句を言わずに、ただ他者を配慮する思いを優先して生きる愛というのが人には弱く、愚かに見えたからであり、決定的なことは、彼らの力や知恵には愛がなかったからであり、だから意味がないと言われています。

 ばかばかしいと思われることでも信じて救われた者はダイナマイトのようなすごい神の力が働き、困難中にあってもへこたれずに、倒されずに、望みと喜びを忘れずに生きていくことができるのです


 

2018年6月24日

:「イエスを誘惑する悪魔」   聖書:ルカ書41節~13

 

 私たちは日常の生活の中で、さまざまな形で試みられています。例えば学校や会社などの試験で能力や人格が試されたり、子供が親の愛を試したり、神への信頼が試されたりするなどです。

 

 主イエスが悪魔から誘惑を受けられていることに対して、神の子が何で試みられるのか、という疑問がでてくるところですが、イエスでさえ試みられているのであるから、私たち人間がいろいろと試されることは当然ありうることであると思えば、ホットできます。

 

聖書はイエスが試みられているのは、私たち人間を助けるためであり、神が荒野に追いやり、試みられ、これから救い主としてどのように生きていけばよいか、人間をどのようにして救い出していけるかという課題の答えを得るためであると語っています。

 

悪魔が主イエスを誘惑している狙いは何かというと、それは、アダムとイブがヘビに誘惑された創世記の記事が示しているように、神から引き離すことであり、神を必要とせずに、神なしで生きていき、神のごとく生きようという思いを与えることであり、神の支えや愛を信頼することができなくさせるということでした。

 

 主イエスは悪魔の誘惑に対して、徹底して、神の言葉をもって反論し、試みに勝利されています。つまり、一人の人間として、生きていくためには神の言葉の養いが必要であり、霊的に満たされていてこそ真に安らぎを得られるし、権力などの偶像なる者に頼らず、唯一の生ける神である方を拝み、信頼することであり、神を自分のために都合よく利用しないで、すべてをよりよく配慮したくださる神にすべてをゆだねる生き方を示されて、試みに勝利されています。

 

 主イエスは、神に造られた人間であるというところに固く立ち、生ける神だけにすべてを賭けて従っていくという固く信仰に立つことによって、生ける神からの豊かな祝福を受けられています。

 


 

2018年6月17日

:「救いのしるし」   聖書:イザヤ書 71節~17

 

 これまでの歩みの中で、心を騒がせ、心を乱し、心が沈むような厳しい状況にあるときに、私たちはどのような対応をしてきていたのだろうかと思いめぐらす時、さまざまな対応が浮かびます。

 

 それは、現実から目をそらして、他のことで紛らわして過ごしたり、時間が解決すると思って、ただひたすら我慢し続けてきたり、その場しのぎの対応であったりして、根本的な解決をしてこなかったことが多かったようにも思います。

 

 本日の箇所で、預言者イザヤが示しているメッセージは本当の解決がここにある、つまり、信仰にある。ただ神を信頼することにあると確信をもって伝えていることです。

 

 紀元前8世紀頃、ユダの国(南イスラエル)の王であったアハズが、北イスラエルがアラムの国と手を組んで、ユダの国に攻めてくるという知らせを受けて、ひどく動揺していた時に、預言者イザヤがアハズ王を励まします。

 

イザヤは、二つの国が攻め込んで、南イスラエルを滅ぼすという企みは絶対うまくいかない。だから落ち着いて、静かにしていなさい。恐れずに心を強くしなさいと伝え、この神の言葉を信じなければ、守られず、持ちこたえられず、だめになる。神の言葉が真実である確信を得るためにも祈ってしるしを求めなさいと語ります。

 

 アハズ王が、私は求めないと答えたのは、解決はアッシリアの国に助けを求めることにあると思い、神の助けを信じ、信頼することができなかったから。ここに信ずることの難しさが示されている。

 

 イザヤは、軍備に頼り、人間に頼っても根本的な解決にはならない。本当の解決は、愛と平和をもたらすために日夜生きて働いておられる、全能の生ける神を固く信じて、救いのしるしを祈り求める信仰を土台とする生き方を抜きにしてはあり得ないと語っています。

 


 

2018年6月10日

:「裁きと救いと召し」   聖書:イザヤ書 61節~13

 

 「誰が我々のために働くだろうか」という神の声を聴いたイザヤは、「私を遣わしください」と応え、預言者の道を歩み始めています。

 

自分の夢を捨て、預言者の働きも苦難を強いられることが言われる厳しい状況の中で、モーセやエレミヤと違って、困難を乗り越えて、イザヤは主体的になり、積極的になって、神の求めや期待に応えようとした。何があつたのか。応えようとした根拠は何か。

 

 それは、神の期待に応えていくことの光栄さであり、神のために働くことに意気を感じたことであり、神のために生きることが真に人のためになると思い、神のために働くことによって、自分が高められ、豊かにされ、尊いものになれると思ったからかもしれない。

 

 決定的な根拠は、万軍の主であり、生きて働いておられる大いなる神に出会い、大きな喜びと望みを得たからかもしれない。

 

 イザヤが預言者としての召命を受けたのは、40年間南イスラエルの国を治めた名君ウジヤ王が死んだ時、彼が神殿に行き、祈っていた時でした。この時、彼の中には何か恐れや行き詰まり感があったのかもしれません。

 

この時、光り輝くセラフィムが現れ、圧倒的な生ける神の臨在に触れ、自分の弱さや罪深さをいやというほど気づかされ、このまま自分は滅び、死んでしまうのではないかと裁かれる思いになると同時に赦されているという思いも与えられる中で、預言者としての召しを感じています。

 

 イザヤは、神は、ご自分の業を行うために必要とし、選び、期待し、用いられるのは罪人であるという御心に目が開かれ、主体的になって、預言者としての厳しい歩みに突き進んでいった。

 

 イザヤの召しを通して示されているのは、神は私たちに対しても、神のために働くものは誰であろうかと呼びかけていることです。

 


2018年6月3日

:「キリストにつながる私たち」

 

聖書:コリント書Ⅰ 1212節~31

 

 私たちはさまざまな違いがある中で生きています。私たちは顔かたち、性格、考え方も違うし、民族・人種や思想・信条にも違いがあるなど、様々な違いがある中で生きていかなければなりません。

 

 一つとなって、バラバラにならず共に生きていくためには、さまざまな違いを拒絶したり、排除せずに、差別や偏見を持たずに、又同じでなければ仲良くできないということもしないで、そうではなくて、違いを認め合い、尊重し合っていくことが必要になります。

 

 パウロは、さまざまな違いがあることは必要なことであり、それぞれが皆尊厳さを持ち、弱いと思われるところこそ大切な働きをしているし、優れていて、強くて、豊かさを持っている人は、高ぶらずに、見下したりせずに、弱い人を尊重でき、弱い人はねたんだり、すねたり、自己卑下もせずに、優れた人をほめたたえることができ、他人の苦しみを自分のこととして受け止めて共に苦しみ、お互いを自分を高め合うことができる存在として認め合う愛の共同体、言い換えれば、皆が自分の居場所が見つけられ、心地よさを感じることができる愛の素晴らしい共同体に言及しています。

 パウロは、愛の共同体とは全く異なっていて、対立があり、自己中心で、身勝手に生きている人が多くて、一つになれずにいるコリント教会の人たちにこのことを訴えているのは、単に理想を語っているのではなく、「私には夢がある」と語ったキング牧師のように、必ず実現できる夢としての確信があったからです。なぜなら、教会には愛が支配しているから、愛であるキリストが共におられるから、人々はそのキリストにつながっているから。キリストの愛に支配されているから、だから愛に生きようとする共同体が実現していく、そう確信して、失望せずに、希望をもって語っています


 

2018年5月27日

:「元気を出しなさい」 聖書:使徒言行録 2713節~38

 

 キリスト者の世における責任や貢献の一つが望みを語ることであると思います。すなわち、絶望的な状況の中にあっても、あきらめてはならない、なんとかなる、大丈夫だ。だから元気を出しなさいと励ますことができるのがキリストの使命の一つです。

 

 ローマ行きの航海で、幾日も続く暴風に会い、パウロ達が乗っていた船が沈没しそうになり、助かる望みが全く消え失せて、パウロ以外の人々は絶望し、何日も食事ができなくなっていました。

 

 パウロは、人々に元気を出しなさいと何回も励ましています。ほかの人たちと同じ危機に置かれても、パウロは必ず助かると言って、励ますことができています。誉れある振舞いができています。

 

 パウロがこのように助けられる望みの確信を持っていたのは、彼自身の強い力によってではなく、神からの助かるという約束の言葉を彼が直接聞き、その言葉を信じていたからでした。

 

 私たちは、直接神の言葉を聞くということがなくても、聖書を通して、すべてを支配し、支え、救いをもたらし、安心して生きていけるように配慮してくださる大いなる、全能の、愛に満ちた生ける神が共にいてくださるという約束の言葉が与えられています。

 

 だから私たちは、様々な試練に会い、死などの恐怖を感じ、絶望的な状況にいる時、絶対必ず助かると言えないが、絶対助からない、奇跡は起こらないとも言えないし、御心ならば、奇跡が起きて、助かる可能性はあるという望みを持てるのではないか。

 

 神に愛されているという約束をしっかりと信じていくならば、様々な危機や苦悩を自分を磨き、高めるための課題としてしっかりと受け止めることができ、絶望せずに、大丈夫だと思え、望みが得られて、元気を出していくことができるのではないか。

 

大事なこととして問われるのは、固い信仰があるかどうかです。

 


 

2018年5月20日

題「聖霊の賜物を生かして仕える

聖書:ペトロの手紙 Ⅰ 11節~2節 47節~11

 

 ペトロは、さまざまな試練の中で苦闘している各地にある諸教会に対して、励ましや慰めの手紙を送っています。

 

厳しい試練によって、人々の信仰が揺らいでいるのではないか。しかし、万物の終わりが迫っているから、信仰に固く立ちなさいと勧めています。

 

あなた方は、聖霊の力を受けて、新しくされ、思慮深く振舞い、身を慎んで、よく祈る信仰に生き、教会が誕生し、人々は最も重要なことは、愛に生き、他者を赦すことであり、それがみ心であることを知り、傲慢にならず、分別をわきまえ、謙虚になって、お互いを認め会い、お互いが与えられている賜物を生かし合い、協力して共に生き、皆が自分の居場所を見つけて生きる信仰に固く立ちなさい。試練に負けて、信仰を捨て、賜物を生かし合うことができず、不平を言い、ねたんだり、卑屈にならないようにしなさいと。

 

 試練を与えるこの世の様々な力はいつかは終わりが来て、滅びてしまう。いつか必ず神の栄光が現れる時が実現し、すべてを支配しているのは生ける神であり、神の愛によって私たちは支配されていることが明らかにされ、神を信ずる信仰が真理であることが証明され、信仰による苦労が報われ、あなたの人生は真実なものであることが示されて、信仰に生きることは無駄ではなかったということが確信できる時が必ずくる。

 

 生ける神はご自分の栄光を実現する時、信仰に生きた人々を用いられる。つまり、生ける神は、ご自分のいのちの書に、覚書に、信仰者の名を刻み、忘れないで、覚えておられ、いろんな形で用いられて、救いの業を行う栄光を実現される。だ

から決して信仰は無駄にならないから、しっかりと信仰に生きるようにと励まします。

 


 

2018年5月6日

:「喜んで弱さを誇る」

聖書:コリント書Ⅱ12110

 

 自分にいろんな弱さがあれば自信がもてなくなり、恥ずかしくなり、つらくなり、苦しくなります。そのためにその弱さを隠そうとしたり、弱さを知られたくないために、無理に強がったり、威張ったり、他者を見下したりして、パワハラなどが起きます。それほど弱いということは私たちにとって嫌な耐え難いものになります。

 

 パウロも弱さが自分を苦しめ、つらくさせていると受け止め、その弱さがなくなるように必死になって祈るほどに、その苦しみは大きく深刻なものであると感じています。

 

 しかし、一転して、パウロは弱さを誇る、大いに喜んで誇るという不思議な驚くべき言葉を語っています。

 

 彼はどうして弱さを誇ると言えるようになったのでしよう。開き直り、やせ我慢、から威張りからきているのでしょぅか。そうではないようです。弱さが高ぶらせずに、謙虚にさせる豊かさを与えるからでしょうか。それは決定的な理由ではないようです。

 

 決定的な理由は、弱さにおいて神の力や栄光が現れる。神は救いの御業を行い、ご自分の栄光を実現するために弱さを必要とし、弱さを用いることをパウロは確信できたからです。

 

 自分の弱さ、伝道者として適格者であるのかと失望させていた罪深いという弱さがあっても、憐れみ深い神は、罪を赦され、逆にその罪があるからこそ、選ばれ、必要とされ、伝道者としてふさわしい者として用いられている、罪を通して神は、聖霊を注ぎ、伝道者に必要な力はすべて与えておられる。神の恵みは十分に注がれている。だからあるがままでよい、弱さに生きてよいと思って、それが自分らしく生きることだと思え、平安になり、囚われから解放され、自由に生きることが真の強さであるとパウロは確信できたからです。

 


 

2018年4月29日

:「恐れず、語り続けよ」

聖書:使徒言行録18111

 

 ゼロからの出発であり、しかも道徳的に乱れていたコリントの町で開拓伝道し、反発やののしられるという恐怖に遭遇させられる中で、パウロが腰を据えて一年半の間勇気を出して福音を宣べ伝え続けられたのは、パウロ個人の強い精神力だけではなく神からの励ましがあったからです。

 

 このことは、人間は皆助けを必要とする弱い生き物であり、弱さは情けないことでもなく、大切なことは、よりよく生きる力を与える真に頼るべき存在と共に生きることであることを示しています。

 

 神からの励ましの言葉とは、「恐れるな。語り続けよ。わたしがあなたと共にいる。あなたに危害を加える者はいない。この町にはわたしの民が大勢いるからだ」という言葉でした。

 

 この言葉によって、パウロは、伝道は神と共に行う働きであり、神が責任を持つ働きであることが確認でき、結果について責任を感じる必要はないし、神はすでに救われるべき人を確保しているし、結果はすべて神にゆだねて、ただ福音を宣べ伝えていくだけでよいと思え、気持ちを楽にでき、他人にこびずに恐れずに勇気を出して語り続けることができたのではないか。

 

 神の働きに参与する伝道には、神の恵みと祝福を受ける報いがある。つまり、心豊かに生きる人を造る福音の豊かな働き、その豊かさに生きる。魂の救いという福音の尊い働き、その尊さに生きる。

 

神の国を実現する福音の偉大な働き、その偉大さに生きる。この恵みによって、大いなる喜び、誉れ、望が生まれ、パウロはさまざまな困難や苦しみを乗り越えて恐れずに伝道することができた。

 

 パウロが感じた勇気の最大なる根拠は、共にいてくださる神は生きておられ、すべてを創造し、支配している全能の愛と平和の神であることを一途にひたすら信ずる信仰です。

 


 

 2018年4月22日

:「知られざる神」

聖書:使徒言行録171634

 

 その当時、文学や芸術が盛んで、文化的中心地であったアテネの町に多くの偶像なる神々が祭られているのを見て、パウロは憤慨しています。

 

 パウロの憤慨は決して偶像なる神々を信じていることへの軽蔑ではなく、そうではなく、パウロは人々が信仰のあつい方であることを認めているように、信ずる心には、自分や人間は完全ではなく、限界をもっており、一人で完全により良く生きていける力や知恵はないし、大いなる存在に依存し、その存在に守られ、助けられ、支配されることによってよりよく生きていける存在であるという真理と深い知恵に生きていると認めていることになります。ですから憤慨する心には軽蔑ではなく、伝道する熱意や福音のすばらしさへの確信そして人々への愛が表れていると理解できます。

 

 パウロは、「知られざる神に」という祭壇があるのを見て、知らずに拝んでいるものを知らせようと言って、次のように語っています。

 

「その方は、万物を造られた方で、すべてを与え、支配し、救い、助けてくださる方であり、人間が考えて作り出した石や鏡などの像ではなく、ご自分から人間の前に現れ、啓示し、人間の歴史を支配し、私たち一人一人を顧み、助けて、生きて働いている創造主であり、全能の神である。この生ける真の神に立ち返りなさい。そうすれば平安、喜び、感謝そして命と自由が与えられる」と伝えます。

 

 パウロの説教は旧約聖書に記されていることを信じ、そのことが主イエスの十字架と復活の出来事によって証されていることを信じ、そして彼自身が復活されて生きている主イエスに出会い、大いなる力に圧倒され、悔い改めさせられ、赦され、愛される経験をし、いつも共にいて、支え、導き、助けてくださる生ける神を信じることができる信仰から来ています。

 


2018年4月15日

 

:「誇る者は主を誇れ」

聖書:コリント書Ⅱ101218

 

 私たちには誇りが必要であり、誇りが持ててこそよりよく生き、豊かに生きられ、どこかかっこよいし、魅力があります。ですから、皆私たちは誇れる人間でありたいという欲求を強く持っています。

 

 聖書は、誇りをもって生きることができない人がいるのか、いやいないし、皆誇りに生きることができると断言しています。このことを表しているのが、「誇る者は主を誇れ」というパウロの言葉です。

 

パウロも、誇りが必要であり、なくてならないものであると言いつつ、ただその誇り方に正しいのと、間違ったものがあると諭しています。つまり、傲慢にさせ、おごり高ぶらせ、人間性を貧しく、愚かにさせ、卑しくさせる、悪い誇りがあると諭しています。

 

 間違った誇り方をする人たちは、自分自身を推薦し、自分の能力や行いを挙げて、他人と比較して、他人を過小評価し、自分を過大評価しながら、人よりも優れていると誇り、他者を見下し、軽蔑するような人間になってしまうとパウロは非難しています。

 

 誰よりも誇りうる業を成し遂げていたパウロがうぬぼれずに、謙虚になれる人間性を持てたのは、自分の働きはすべて神がなさった業であり、ただ自分は神に用いられただけであり、すべては神から与えられた業であり、赦されて生かされている自分であるという自覚があったからでした。だからパウロは主を誇ることしかできなかつたし、主を誇ることによって自分も豊かな業を行い、誇りを見出すことができた。だから誇る者は主を誇れと主張しています。

 

 主を誇るということは、神の愛と慈しみを信じ、大事にし、そこにすべてを賭けて生きることであり、神は神の愛と慈しみに生きる者を神の業に用いられるから、神の慈しみに生きる者は誰でも自分自身に誇りうるものがなくても、夢中になれる誇りうるものが与えられ、謙虚さを保ちながら、豊かに生きることができると言います。

 


2018年4月8日

 

:「人生の同伴者」

聖書:ルカ福音書241335

 

 私たちが復活したイエスを信じ、復活の信仰に本当に生きているかどうかを判断するのが心が燃えているかのかどうかです。つまり悲しみや苦しみそして恐れにとらわれずに、前向きに、力強く、望みを持って生きているかどうか、さまざまな困難があっても、その困難を乗り越えていくことこそが人生の楽しみであると思って、強く生きる生き方があるかどうかが問われるのかもしれません。

 

 復活を信じていない、エマオへ向かう二人の旅人の心は暗く、嘆き悲しみ、不安や恐れの中にありました。この二人に主イエスが近づいて、共に旅をすることになっても、彼らは、同伴者が復活したイエスであることに気づかなかったし、女性たちから、墓は空っぽであり、天使がイエスはよみがえられたと言っていたと聞いても信じることはできませんでした。

 

 彼らが信ずることができなかったのは、イエスは死んで墓に葬られたという思いに強く囚われていたからであり、必ず救い主は苦難を経て栄光を受ける、十字架で死んだ後に復活するという約束の言葉を信じていなかったからであるとイエスから諭されています。

 

 彼らがイエスだと気づいたのは、イエスが主人としての権威をもってパンを割く食事をしていた時であり、彼らが僕のように心を低くしていた時でした。

 

 イエスへの期待が外れて失望した思いを話しながら旅をしている二人に主イエスは近づき、「恐れることはない」と言って同伴者となっているこの物語は、イエスの名によって二人三人が集っている教会において、私たちにおいても、生きているイエスが必ず共にいてくださるという約束が実現することを示しています。

 

 この約束の言葉をしっかりと信じることによって、私たちの人生に同伴者なるイエスがおられ、心を燃やす生き方が実現します。

 


2018年4月1日

 

:「命の勝利」

聖書:マルコ福音書16111

 

 何かがダメになっていたのが元に戻って良かったと感じる復活とは違って、死んだイエスが新しい命によみがえるイースター(復活)の出来事は、ありえないことであるし、馬鹿げていて、愚かしいことであり、良いこととして信ずることは本当に難しい。

 

 愚かで、バカバカしいと思えることを聖書が本気で、一生懸命になって伝えているのは、復活は希望であるからであり、真理であり、歴史的事実であり、何にも代え難い宝であるからです。

 

 死んで墓に葬られて三日目の日曜日の朝に、マグダラのマリア達がイエスの身体に香料を塗るために赴くと、墓は空っぽで、白い衣を着た若者から、「あの方は復活なさってここにはおられない」と言われ、彼女たちは恐ろしくなったことが記されています。

 

 復活は、イスエが言われたことや行ったことは御心に適い、神かに遣わされた救い主であることが真実であり、また恐ろしく不気味な力である死が滅ぼされ、命が勝利した出来事であり、信ずる者は、生きている水が滔々と流れるごとくに、飢え渇くことなく、生き生きとして、ワクワクしながら、生きる命が得られ、そして私たちを支配しているのは、裁く力ではなく、愛の力であることが証明された出来事です。

 

 復活が幻でもなく、作り話でもなく、歴史的事実であることを示していると思えるのは、弟子達の変貌です。つまり、かれらは、復活したイエスに出会ってから、臆病であったのが、雄々しくなり、命を懸けて、イエスは復活した、この方こそ救い主であることを力強く証しするようになり、本当に見違えるように変わったことです。

 

復活は理性や分析などによって解ることではなく、ただ信ずるしかない。幼な子のように、謙虚になって、素直になって、死に勝利されて永遠の命に復活して生きているイエスを信ずるしかない。

 


 

2018年3月25日

  題:「救い主イエスの死」

  聖書:マルコ福音書153341

 

 十字架上で、イエスは、「わが神、わが神、なぜわたしを見捨てになったのですか」という悲痛な、絶望的な叫びをあげておられます。

 

 この絶望的な叫びには、救い主としての偉大さや毅然さが見られない。あまりにも弱弱しく、臆病で惨めであると思い、イエスには救い主としての自覚はなかったし、救い主でもないことの表れだと理解し、つまずく人もいるに違いありません。

 

 ただそのように理解することは間違っていることを示しているのが、十字架上のイエスを見て、「この人こそ神の子である」と理解し、イエスを普通の人間ではなく、特別な存在であると告白できた百人隊長の存在です。この信仰告白をどう理解すればよいのか。

 

 一つは、イエスが侮辱され、創造を絶するような苦しみに沈黙を守り、じっと耐えて十字架の道を歩む姿から、この絶望的な叫びは、死の恐怖におびえているのではない、と理解することです。

 

 もう一つは、「なぜお見捨てになったのですか」という絶望的な叫びの理由は、神から救い主の使命を与えられ、多くの人を救いに導く約束を得ていたのに、実際は弟子や他の人々から見捨てられたのを見て、「神にも見捨てられたのではないか」思い、どうしてですかと問いかける叫びであると理解することです。

 

 三つ目は罪深い人間の身代わりとなって裁かれ、罰せられ、死に追いやられるイエスは、死によって神との関係が断ち切られることがどんなに悲惨であり、いつも神と一体であつた状態から切り離されるイエスにとっては特にどんなに恐ろしいことであるかがよく解っておられるところからの絶望的な叫びであると理解することです。

 

この絶望的な状況に於かれているにも関わらず、投げ出さないで、わが神、わが神、と呼び絶大な信頼を寄せている姿として理解し、この姿にこそ救い主としてのしるしがあると理解することです。

 


 

 2018年3月18日

 題:「イエスを罵る人達」

 聖書:マルコ福音書152132

 

 つばをかけられ、罵られ、バカにされ、侮辱され、人格を否定され、虫けらのように扱われ、みじめな、悲惨な状態に置かれているイエスの姿に、おぞましさ、恐ろしさを感じます。

 

「神よ、なぜ沈黙を守っておられるのですか。あなたが義であり、愛の存在であり、生きて働いている存在であることが解るように何か仰ってください」と祈らずにおれないような沈黙があります。

 

 「神よ、なぜ沈黙されているのですか」という問いかけに、神は沈黙の中でしっかりと答えを出しておられるのではないか。それは、イエスを罵る人達がどんなに愚かで、邪悪で、みじめな存在であることがはっきりと浮かび上がることによって、裁かれているのは、彼らであることが見えてきていることによってです。

 

 彼らの「他人を救ったのに、自分は救えない」と言って侮辱している言葉は、彼らはイエスが愛に生きておられたことを認めることになり、愛に生きることが奇跡などのすごい力ある業よりもより尊く、より豊かであり、より偉大なことであることが解っていないし、愛が救いの最も根源的なものであることを理解していないことが暴露されて、彼ら自身が裁かれていることが見えてきます。

 

イエスが虫けらのようにひどい扱いを受けていることは詩編やイザヤ書の預言が成就されている出来事であり、そこに神の働きかけがあり、神は沈黙せずに、イエスをしっかりと見守っていることになり、沈黙の中で雄弁に語っていることが示されています。

 迫害や差別そして冤罪などの不条理な苦悩を受けている人々は、自分たちは決して裁かれ、呪われ、見放されてはいないし、むしろ自分たちの悲しさ、絶望をよく解っておられる、大いなる生ける神と救い主イエスが共にいてくださるという確信が得られ、慰められ、癒され、しつかりと望みに生きることが出来るにちがいありません

 

2018年3月11日

   題:「死と向き合い、祈るイエス」

   聖書:マルコ福音書143242

 

 十字架の苦難と死を迎える直前に、イエスは恐れ悶えていましたが、しばらくしたら、恐れから解放され、落ち着かれ、心晴れやかになり、勇気をもって死に向かって突き進んでいかれました。

 

 この変化は祈りによるものでした。真剣に、本気になって祈る中で、神から力と知恵を与えられたのでした。ことあるごとに祈られたイエスを見習って、私たちも絶えず祈り、その祈りが力ある祈りになっているのか、私達の祈りの真剣さ、本気度が問われます。

 

 ゲッセマネでの恐れ悶えるイエスの祈りをどう理解すればよいのか。弱く、臆病で、死の恐怖に敗北する私達と全く違う力に満ちたイエスが、怯え悶えた状態になられたのか不思議に思います。

 

 考えられるのは、自分の死に恐怖を覚えたのではなく、神から遣わされ、神の教えと愛を伝えた自分が呪われるようにして、みじめな姿をさらけ出し、敗北者のように死んでいくことが弟子達や人々をつまずかせ、神の力と愛を信じられなくなり、神に躓き、神から離れて、信仰によって与えられていた賢さが消え、愚かなひとに戻り。豊かさが消え貧しくなり、尊さが消え卑しくなり、古い人間に堕落していく人が出てくるのを恐れる思いがあって、この杯を取り除けてくださいという祈りが出て生きていると言えます。

 

 ゲッセマネの祈りに、イエスは、3人の弟子達を連れていかれた理由は、彼らに直面する苦難や試練の備えを身につけさせる願いがあったからかもしれません。つまり、困難や試練の備えこそ祈りであり、祈りこそ希望をもって困難に耐え乗り越えていく力と知恵が得られることを示し、具体的には、人間を救い、幸いをもたらし、祝福となるところのみ心が行われますようにという祈りを祈ることを示し、この祈りを祈り続けていくことによって正しい、深い祈りと成長し、万全な備えが身につけられるようになると思われたから。

 


 

 3月4日

    題:「ペトロの裏切り」

  聖書:マルコによる福音書14章27節~31節、66節~71節  

 

 主イエスが十字架の道を神のみ心と信じ、苦難や死の恐怖に打ち勝ち、まっしぐらに、ぶれることなく、毅然として突き進まれていく一方で、弟子たちは恐れて、主イエスから逃げて、主イエスとは関係ないと言って、裏切る堕落した姿が描かれています。

 

 教会の指導者であり、優れた伝道を成し遂げたペトロの卑怯な、ふがいない、罪深い姿が赤裸々に、正直に描かれているのは、どうしてなのかと不思議に思います。

 

 あるがままの姿を描いている理由は、初代教会の人たちが私達にぜひとも訴えたい大事なことや本当に分かってほしい大切なことや必ず受け入れたほしい尊いことがあったからかもしれません。

 

 一つは、教会の中心人物として働いた優れたペトロでさえ弱さや愚かさを持っているから、どんな人も弱さや愚かさを抱えているのは当然であるし、そのことに心を閉ざさずに、心を開いて、自分の弱さや罪を認め、悔い改めをすることが大事であり、そのことによって、心が浄化され、新しく生まれ変わり、さらに豊かに、大きく、優れた人間に成長できることを訴えたかったかもしれません。

 

 もう一つは、立派でもなく、正しくもなく、弱く、罪深かったペトロが神に愛され、御業のために必要とされ、用いられていることは、どんなに愚かであっても、人は皆神に赦されない人はいないし、どんな罪も赦さないことはないし、どんな人も赦され、必要とされる大切な人間であることをしつかりと受け入れてほしいという願いがあったのかもしれません。

 

 罪深いペトロが素晴らしい伝道者に生まれ変わるきっかけとなったのは、主イエスの毅然とした、愛溢れた言葉に出会い、弱く愚かな自分の赦しを確認でき、癒され、慰められ、尽きない涙を流すほどの深い悔い改めをし、新しい人に変わることができたからてす。

 


2月25日

 題:「終末の到来」

聖書:マルコ福音書13113節 

 

 私たちには避けられない死をどう迎えるかということは、大事な課題になります。突然に、思いがけない形で、前触れもなく、やってくるこの世の最後となる死を恐れから解放されて、安心して、穏やかな状態で、自分の人生はこれでよかったと思って悔いなく、感謝して迎えられることは幸いなことです。

 

 この幸いをもたらすことの一つが神の救いを得て生きることであるから、救いを与える信仰を最後まで耐え忍び、持ち続けなさいと主イエスは励ましています。

 

 主イエスが励まされているのは、信仰を持ち続けていくことを困難にする障害があるのが解っておられたからでした。つまり、ご自分をただ信ずる信仰によって救われることを否定しようとする、惑わす人が出てくる。また戦争や地震などの悲惨のことが起きる。権力者などの人々から迫害を受けたり、家族との関係が悪くなるという悲しみを経験する。これらのことは起こることが決まっていることであり、神が無力だから起きることでもないし、世の闇のような苦難はずっと続いて世の終わりがくるわけでもない。これが世の終わりではない。だから惑わされないように気をつけなさい。

 

さまざまな苦難に苦しんでいる時でも、決して一人ではない。聖霊を通して神が共にいて、あなた方を慰め、癒し、平安を与え、苦難に耐えられる力が与えられる。だから神の愛に留まり、信仰を捨てないで、しっかりと立ち続けて生きなさい。

いつか必ず、神が生きて働いている大いなる方であることがはっきりと明らかになる時が来る。主イエスの再臨があり、わたし達を真に支配している平和と愛の神の国が実現する終末が必ずやってくる。そう信じて、最後まで忍耐して、死に臨んでも安らぎと癒しをもたらす信仰に生き続けなさいと主イエスは励ましておられます。


2月18日の礼拝説教

「イエスの覚悟」

 

聖書:マルコ福音書11章1節~11節

 

 十字架への道を歩む覚悟を決められた主イエスは、ご自分を攻撃し、命を殺害しよう思っている権力者達がいるエルサレムの町にロバに乗って入っていかれています。

 

 闘いにふさわしいと思われる屈強な、たくましい軍馬を用いずに、柔和なロバを用いられたのは、イスラエルを救う王はロバに乗ってくることを数百年前に預言者ゼカリヤが預言しているのを意識して、ご自分こそ王として神の支配を実現し、人類を救い、人間がさまざまな恐れから解放されて、癒され、安心し、希望を抱いて生きることができる王としての使命を与えられているという確信があり、そのことを表そうとしたからではないか。

 

 主イエスはこのことが真実であると思われたのは、多くの人々が、その当時の習わしに従って、王を迎える時道に服を敷き、木の枝を敷いて、ホサナと叫びながら喜んで迎えたのを見た時であったに違いありません。

 

 主イエスを王として迎え、自分たちを救ってくれると期待した人々の中に、後で、心変わりして、権力者たちと一緒になって十字架につけよと叫ぶようになっています。

 

 人々がこのように変わったのは、主イエスが、力づくで、ローマをやっつけ、強い王としてふるまわずに、柔和なロバのように、仕える王として、人々を赦し、愛することを通して救いを実現する王としてふるまうことに失望したからでした。

 

 主イエスは、生ける神が、救い主として働くために必要なことはすべて備えてくださっていると信じ、すべてをゆだねられたように私たちに対して、ご自分を王として迎え、まず神の国と神の義を求めて、恐れを取り除き、癒し、慰め、安心して生きていけるように配慮する神の計らいと顧みにすべてをゆだねるように勧めています。